ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(68)遊戯機能としての詩作

詩作とは、1つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行なわれる。精神が自らのために創った固有の世界で営まれている。そこでは物事は〈日常生活〉の中にあった時とは異なった相貌(そうぼう)を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。もし、真面目ということを、目覚めている生命の言葉の中に、はっきり断定的に表わされるもの、というふうに捉えるならば、詩はとうてい完全な意味で真面目なもの、と言うことはできない。それは真面目を超越した彼岸に立っている。子供、動物、未開人、予言者が属している根源的、原始的な層の中にあり、夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。詩を理解するためには、われわれは魔法のマントのように子供の魂をとらえる力を持ち、大人の知恵よりも子供のそれを選ぶことができなくてはならないのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 209)

 <詩>は、「非日常」的な表現手法であることからして、<遊び>の1つということになろう。<詩>は、特殊な表現形式を用いることによって、「異次元の世界」を演出する。

 詩を古代文化の因子として、根源的機能について見るならば、それは遊戯の中に、遊戯として生まれたのである。奉献された、聖なる遊戯なのである。しかし、そういう神聖さの中に生まれながら、遊戯はいつも悪ふざけ、冗談、娯楽と境いを接しあうあたりにとどまっていた。

詩は美の衝動の意識的満足である、というようなことは、まだまだその後も長く言い得ることではない。それは奇蹟の業(わざ)、祝祭の陶酔、神聖な行事をうっとり体験しているあいだに、もう詩めいた形で言葉に言い表わされていながら、まだその素性は認められもせず、人々の心の奥に潜んでいたにすぎなかった。だが、そんなあり方だけだったわけではない。それと同時に、詩的活力はすべてを引きずりこんでしまう陽気な古代社会の社交遊戯や、幾つかの集団の問で激しく高潮する競技などにも変化した。春の祭典であるとか、またそれ以外にも、部族の祝日に催される両性の接触形式とかよりも、豊かに詩的表現の能力をみのらせるものはなかった。

 この最後に述べた光景について。若い男女がふざけたり、からかったりしながら機知や当意即妙、名人芸を競争して、惹(ひ)きつけられてみたり、また反撥(はんぱつ)してみたりというふうな、長年の間絶えることなく新たに繰り返されてきた遊戯形式が言葉に定着した時、そこに詩が生まれるのだ。こういう詩も、疑いもなく詩の祭儀的機能と同じであって、それ自体が根源的なものである。(同、pp. 213f

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