ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(69)神話は詩

 詩といわれるものはすべて、遊戯の中に生長してきた。神の礼拝という聖なる遊戯、求愛という儀式的遊戯、自慢、悪罵、嘲弄(ちょうろう)の競争という闘争的遊戯、才知、機知を比べるという気転の遊戯、みなそれである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 224)

神話は、どのような形でわれわれに伝えられたものであれ、常に詩である。それは、われわれがその昔ほんとうに起こったのだと想像する出来事が詩の形をとり、形象化の手段によって、イメージとして伝えられた物語である。それには最も深遠な、神聖な意味が、詰めこまれていることもある。そして、おそらく合理的なものの見方では決して語ることができまい、と思われるさまざまの関連を表現しているのである。(同)

《19世紀末から20世紀にかけて、主としてイギリスの人類学者タイラーやフレーザーなどによって行われた神話研究は、今から見るとあまりに傲慢な、現代の知性の優越に胡座(あぐら)をかいた姿勢に貰かれていたように思える。それによると、神話なるものはどれも荒唐無稽(こうとうむけい)で、非論理的な内容に満ち満ちているので、未開野蛮な文化発達段階の最も初期の状態を反映した話にすぎない、と断定されていた。

 人類は文明に達する前には、なにか漠然とした物理的な力、あるいは自然力に対しては畏怖(いふ)の感情を抱きがちである。当時の学者たちは、こういう力の信仰とそれに働きかけるための呪術とだけから成り立っていたのが人類の宗教の最も原初的な形態であったとみなして、それを「前アニミズム」と呼んだ。そこから文化や知能がやや発達すると、霊魂や精霊に対する信仰が起こってくる。それがタイラーによって霊魂信仰すなわちアニミズムと命名された段階であった。そして、そういう霊魂とか精霊が次の発達段階で、擬人化されることで、初めて多神教の神々が発生すると考えられた。神話はこの多神教の段階にまで宗教が発達して初めて創り出される、と見るのである。

 これはどこまでも人格神を上位に置く考え方である。つまり神話は非常に未開で野蛮なものではあるが、それすらもまだ持っていないような人類の文化の低い段階がある。ニューギニアのような地球上の未開人の住む地帯に行けば、神話もまだ持たなかった古い時代の人類の文化がどういうものであったかを実際に見ることができるし、そこから神話の形成過程を研究することができるであろうといった神話観が、今世紀の前半あるいはもう少し後まで、西洋の学界で広く一般的にまかり通っていた基礎的考え方であった。こういう神話観が根本的に間違った考え方であることは、今では明瞭になってきている》(西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社)、pp. 116f



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