ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(71)理性が届かぬ高みに飛翔する神話

《口承されていた神話の記述化は、すでに神話的思考の克服の一里塚である。

 すなわち、現在の自分と直接つながるものとしての過去の出来事のできるだけ正確な再現ということではなくて、現在とどうかかわるかは定かではないが、かつて神々の世界としてそのような過去があると信じられていた、今の自分からみればすでに完全に異世界となった、遠い了解不可能な世界をはるか遠望するかのような意識において、ひとつの区切られた世界を知られているままに記述していく、そういう無私の叙述にみえてくる。恐らく叙述者は現代のわれわれと同じように神々の物語の非合理に気がついていたであろう。しかし合理的に説明しようなどという気はさらさらない。論証など思いも寄らない。いずれにせよ神々の世界はそのようなものとしてあったのだから、そのようなものとしてこれを了解するよりほかに仕方がない、という説明の放棄がすでに最初にある》(西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社)、pp. 122f

 「過去」は、遠くなればなるほど、真偽不明な、曖昧な出来事と化していく。例えば、遥か遠くの国家開闢(かいびゃく)の物語を書こうとすれば、通常の技法では表現することは出来ない。だから、非日常的な<詩>という表現形式が用いられるわけである。

《それは信仰というようなものとは少し違う。過去を語ることは小ざかしい現在の意識をいっさい捨てることだ、と言っているようにみえる。物語の矛盾や辻複の合わない点に気がついていないのではない。異世界はどこまでも異世界なので、解釈などはしないと言っているだけである。解釈を後世に委ねている正確な叙述だけ心がければよい。神話が優れて歴史叙述の問題である所以(ゆえん)である》(同、p. 123

このように神話は、文化がまだそれに対応していた段階では、神聖で神秘的な性格のものだった。すなわち、人々がそれを受けとる時の態度は、無条件に率直なものだった。しかし、このことを完全に承認したとしても、その当時、神話はあらゆる点で真面目なものと呼ぶことができたかどうか、この疑いが消え去らないのはもっともなことであるし確かに、われわれは、詩を一般に真面目なものとするが、その程度においては、神話をも真面目なものと言うことはできる。

理性的に物事を考え、判定する判断の閾(しきい)を越えたすべてのものと同じであって、詩も神話も、共に遊戯領域の中を動いている。だがこれは、より低い領域の中で、と言おうとしてのことではない。神話は理性など追いつくことのできない高みへ、遊戯しながら翔(か)けのぼってゆくのだ、というべきかも知れない。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 224f

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