ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(72)神話とは何か

 神話は正しい理解をうけ、現代のプロパガンダがそこに無理に押しつけようとしている頽廃(たいはい)的な意味でなく受け取られるなら、宇宙に対する原始人の考えをまことに適切に媒介するものである。考えることが可能なものと不可能なものとのあいだに境界線を引くということは、文化がようやく生成発展を始めるようになってから、人間精神がやってのけたことにすぎない。未開人たちが世界を論理的に秩序づける能力はごく限られた程度のものだったが、彼らにしてみれば、そもそもどんなことでも可能でないものはなかった。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 225)

 ホイジンガは、文化人類学的に「神話」を捕えているのだろう。文化が未発達の人達、詰まり、「未開人」の混沌(こんとん)とした「世界観」を「神話」として捉えている。また、歴史学的に視れば、「事実」として過去を捉えた「歴史」に先行する、事実とは言い難い「神話」とはやや「神話」の位置付けが異なるに違いない。さらには、宗教学的見地から「神話」を信仰の対象として捉えることも可能である。

神話の示すあらゆる非条理と巨大さ。その無制約の誇張と、もろもろの事象の間の関係の混乱ぶり。その投げやりな矛盾と気紛れな変化。だが、それらにもかかわらず、神話はほかの何か途方もないもののように、彼を悩ませはしなかった。しかし、たとえそうであったとしても、われわれはこう自問してみなければなるまい、未開人にとってさえ、彼らの最も神聖なはずの神話に対する信仰には、最初からある種の諧謔(かいぎゃく)的な調子という要素が染みついてはいなかったか、と。詩と共通して、神話も遊戯領域に発生したのであり、従って未開人の信仰は、その全生活がそうであったように、少なくとも半ば以上は、やはりこの領域の中にあったのだ。(同)

 「神話」の非現実性、非論理性といったものは、「遊び」の非日常性と重なる部分が多い。否、「神話」は、現実から遊離した「遊び」の中で生まれたというのはホイジンガの言う通りであろう。

 古代文化の中では、詩人の言葉はまだ非常に強い活力を持った表現手段であった。そのころは、詩は単なる文学的熱情の満足という以上に幅広い、生気ある機能を充たしていた。祭祀を言葉に置き換え、社会の諸関係を調停し、知恵、法律、道徳の担い手となっていた。どんなことをしても、それは遊戯の本質を損いはしなかった。最も古い、原始文化の枠そのものが、遊戯の圏(かこい)に嵌(は)めこまれていたからである。こういう行為としての詩は、その大部分が、社交遊戯の形式の中で行なわれていた。功利的な活動でさえ、好んで何らかの遊戯団体につぎあわされた。(同、p. 232

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