ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(73)神話における「擬神法」

文化が精神的な方向に展開してゆくのに応じて、変化がおこった。遊戯の特徴が辛うじて認められるだけの領域、あるいはそれが全然認められないような分野が現われ、遊戯が自由な軌道の上に繰りひろげられている分野を犠牲として、しだいに拡がってゆくのだ。

文化は、全体としてはますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れあいを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行きを共にするように見える。

しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華やかな、高貴な遊戯の砦(とりで)として残っているもの、それが詩なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 232f

 社会の現実が苛酷になるにつれて、「本気」の度合いが増し、「遊び」が衰微した。が、その中にあって<詩>だけは、命脈を保っているのだ。

 隠喩とはある状態、またはある出来事を描写するにあたって、生き生きと活動している生からひきだした概念を用いるということであり、その効果もその点にかかっている。とすれば、このときすでにわれわれは、擬人化への道の途上にあることになる。実体のないもの、生命のないものを人格として表わす、これがすべての神話が形成されてゆく場合の、そして殆んどすべての詩作が行なわれる場合の本質なのである。 

※隠喩:比喩法の一。「…のようだ」「…のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。(例)「歩きすぎて足が棒になった」「人生はマラソンである」

 神話の世界の出来事は、物を人に喩えた「擬人法」では説得力に欠ける。物事を神々の御業に喩えた「擬神法」を用いてこそ、信じるに値するものになれるのだ。

厳密にいえば、そういう表現を形成してゆく過程は、今述べたような径路を順を追ってたどるものではない。最初実体がないと考えられたものが、生命があると考えられるものによって表現されて、そこで初めて生命を吹きこまれる、というのではない。根源的なことは、知覚された事物が生きて動いている生命体という観念に置き換えられる、ということなのである。それは、われわれのうちに、知覚したものを他人に伝えたいという欲求が動き出すやいなや、すぐさま生じる。観念はこうして、形象化する作用の中に生まれるのである。(同、p. 236

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