ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(74)擬人法

Are we justified in calling this innate habit of mind, this tendency to create an imaginary world of living beings (or perhaps: a world of animate ideas), a playing of the mind, a mental game? – J. Huizinga, Homo Ludens: VIII THE ELEMENTS OF MYTHOPOIESIS

(この生まれながらの心の習慣、生き物の空想の世界(おそらくは、生気に満ちた観念の世界)を創り上げるこの傾向を、心の遊び、心的遊戯と呼んでも差支えありませんか)― ― ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第8章 神話想像の要素 cf. 高橋英夫訳、p. 236

Let us take one of the most elementary forms of personification, namely, mythical speculations concerning the origin of the world and things, in which creation is imagined as the work of certain gods using the limbs of a world-giant's body. -- Ibid.

(擬人化の最も初歩的な形態の1つ、すなわち、天地創造が、世界巨人の体の手足を使った、ある神々の御業(みわざ)として思い描かれている、世界と物事の起源に関する神話的思索を例にとりましょう)― cf. 高橋英夫訳、pp. 236f

Normally we are inclined to regard the personification of abstract ideas as the late product of bookish invention -- as allegory, a stylistic device which the art and literature of all ages have made hackneyed. And indeed, as soon as the poetic metaphor ceases to move on the plane of genuine and original myth and no longer forms part of some sacred activity, the belief-value of the personification it contains becomes problematical, not to say illusory. Personification is then used quite consciously as the material of poetry, even when the ideas it helps to formulate are still counted as holy.-- Ibid.

(通常、私達は、抽象的な観念を擬人化することを、最近の書物的発明の産物として、すなわち、全時代の芸術や文学が陳腐化させた文体上の工夫、寓喩と見做しがちです。そして実際、詩的な隠喩が本家本元の神話の平面を動くことをやめ、もはや神聖な活動の一部たりとも成さなくなると、そこに含まれる擬人化の信用価値は、幻想とまでは言わないまでも、疑わしくなる。その結果、擬人化は、それが形成するのに役立つ観念がまだ神聖なものと見做されているときでさえ、まったく詩の材料との意識で使われるのです)― cf. 高橋英夫訳、pp. 238f

 今では「擬人法」は、文学的表現を豊かにする1つの技法にすぎないが、遠い昔は、超自然的な現象を表現する半ば神懸かった手法であった。それが、科学の進歩と共に薄れ、ただの詩の表現技法に成り下がってしまったということである。

 これらはみな、色蒼ざめた比喩、心の裡(うち)に創りあげた形姿にすぎないのだろうか。おそらくそんなものではない。むしろ、これら各種の性質を擬人化することは、原始人が自分の周囲を取り巻いているのを感じた自然力、暴力に形を与えようとしても、まだそれに人間の輪郭をとらせるには至らなかった、原始時代の宗教的形態化の働きの1つだったのであろう。

この仮説の理由はいくらもある。人間の心が、神々を人間の姿をしたものとして表象する前には、心は自然と生命の神秘な、威嚇的な力に襲われて衝撃を受けた時、この威圧したり、昂奪させたりするものに対して、はっきり決まらない名前を与えたのである。彼はそれを存在として見てはいる。しかし、まだ殆んど形態あるものとして思い浮べるには至っていないのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 239

 いかなる形をとっているにせよ、擬人化ということは、最も祭儀的な性質の強いものから最も文学的なものにまでわたり、人間精神のきわめて重要な表現手段であると共に、いつも1つの遊戯機能でもあった。(同、p. 242

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