ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(76)詩的誇張

韻律の言葉は、社会の遊戯の中にのみ生まれるのである。そこにこそ詩は生きた機能を保ち、その意味とその価値を持っている。そして社会的遊戯がその祭祀的、祝祭的、儀式的性格を失ってゆく度合に応じて、それらのものも消滅してゆくのである。押韻、対句法、二行連句などの要素はみな、遊戯の中にある攻撃と反撃、上昇と下降、問と答、謎と解決といった時間を超越した類型の中に、その意味の根をおろしているのである。それらの起源は歌、音楽、舞踊の原理と不可分に結びつけられており、それらはまた、すべて遊戯という根源的機能の中に包含されている。だんだんと詩の意識的な特質として認識されるようになってきたもの、つまり美、神聖、魔力などは、初めはまだ原始的な遊戯という質の中に閉じ籠められていたのであった。

 われわれは詩を不滅のギリシア的範型に従って大きく3類に分け、抒情詩、叙事詩、戯曲とするが、それらの中で、最も根源的な遊戯領域の中にとどまっているのが抒情的なものである。ただここでは、抒情詩を詩の種類としての名称と受け取ってはならない。それはいつどういう形で現われて来てもよい、ある詩的気分、表現一般をいうのであって、恍惚状態とでもいうべきもののすべてをその領域に含ませることができる。こうして、非常に広い意味において受け取られた抒情的なものは、詩的言語の形づくる階梯(かいてい)の中では、論理からは最も遠くへだたり、舞踊と音楽には最も近い位置にある。神秘的瞑想、神託、呪術の言葉は抒情的なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 245

Emile Faguet speaks somewhere of "Ie grain de sottise necessaire au lyrique moderne". But it is not the modern lyrical poet alone who needs it; the whole genre must of necessity move outside the limitations of the intellect. One of the basic features of lyrical imagination is the tendency to maniacal exaggeration. Poetry must be exorbitant.

(エミール・ファゲは、どこかで、「現代の抒情詩に必要な馬鹿馬鹿しさの粒」と言っています。しかし、現代の抒情詩人だけがそれを必要とするのではありません。全ジャンルが、必然的に、知性の限界から踏み出さねばならないのです。抒情詩の想像力の基本的な特徴の1つに、熱狂的誇張の傾向があります。詩は法外なものでなければならないのです)― cf. 高橋訳、p. 246

測り知れない量とか、得体の知れない質などを空想することで、できる限り強く感覚を麻痺させてしまうようなイメージを創ろうとする欲求は、もっぱら詩的機能として、抒情詩的形式の中でだけ働いているわけではない。この無限なものへの欲望こそ、まさに典型的な遊戯機能なのである。それはある種の精神病者にも見出されるが、もともと子供に固有のものである。さらにこれは神話や英雄伝の文学的編纂者にもよく見かける傾向である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 246

 誇張表現と言えば、李白『秋浦歌』の「白髪三千丈」が有名である。

白髪三千丈 / 愁に縁って箇の似く長し / 知らず明鏡の裏 / 何れの処にか秋霜を得たる

白髪は三千丈(=9km)ほどあるだろうか / 愁いによってこんなに長くなってしまった / 

澄んだ鏡の中を見ていても気付かなかった / どこで秋の霜にも似た白髪を身に付けたのだろうか

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