ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(79)ソフィストとは

 われわれが遊戯という概念の輪廓を措こうとする時、その円の中心に立つのがギリシアのソフィストたちの形姿である。古代の文化生活の中央に位する存在として、これまでわれわれの眼の前に予言者、シャーマン、見者、奇蹟の人、そして詩人の姿が次々と現われた。われわれには、これらを総括するのに最もよい名称は予言詩人であるように見えたのだが、ソフィストというのは彼らのやや逸脱した後継者なのだ。人前で自分の腕をふるいたいという欲望、ライヴァルを公の競争で負かしてやろうという欲望、この社会的遊戯の2つの大きな衝動は、ソフィストの機能の中でも、はっきり表面に現われている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 252)

 <ソフィスト>と言えば、白を黒と言いくるめる「詭弁家」の心象が強いだろう。

《もし、ソクラテスが、プロパガンダといふ言葉を知つてゐたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあつては必至のものだと言つたであらう。言ふまでもなく、ソクラテスは、この世に本音の意味で教育といふものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信してゐた。もし彼が今日生きてゐたら、現代のソフィスト達が説教してゐる事、例へばマテリアリズムといふものを、辯證法(べんしょうほう)とか何んとか的とか言ふ言葉で改良したらヒューマニズムになるといふやうな詭辨(きべん)を見逃すわけはない。事賓を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から變つてゐない、と彼は言ふだらう》(小林秀雄「プラトンの『國家』」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第12巻「考へるヒント」、p. 31

 が、哲人田中美知太郎は次のように説明する。

《ソフィストとは何か。職業的な教師、つまり何かを教えて報酬をもらう人たちということになる。しかしこれだけのことなら、子供たちに読み書きや計算を教える人たちも同じことである。ソフィストたちは、そういう初等教育の教師たちに対して、あるいは高等教育を受けもつものと言うことができるかも知れない。『プロタゴラス』(317B318E319A)において、プロタゴラスが標榜(ひょうぼう)するところでは、よき市民、すぐれた人間をつくるというような、高遠高尚な理想をもつものであった。しかし実際においては、アテナイのような民主制社会において有力な人物となるための教育、もっと簡単に言えば、弁論の技術を教えるものであった。ゴルギアスは特にこのことを強調したようである。しかしヒッピアスのような人は、数学や天文学のようなものをも含む、もっと広範囲の知識をさずけることを約束していたようである。アリストパネスの喜劇『雲』に見られた学校の教科は、これらソフィストによって教えられることの総見本ということにもなるだろう》(田中美知太郎『プラトン I 商材と著作』(岩波書店)、p. 52



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