ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(82)ソフィストとは〈遊び事〉に携わっている者達
ギリシア人自身は、彼らがやっているこれらすべてのことが、どんなに遊戯の領域の中で行なわれているものか、いつもよく自覚していた。『エウテュデーモス』の中で、ソークラテースはソフィスト的な陥穽(わな)仕掛けの質問を、命題の遊戯として拒(しりぞ)けている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 256)
ソクラテスは言う。
たしかにそれらは学識の戯れだ――それだから実際、僕はこの方々が君に戯れかけていなさると主張するのだ――そして戯れと僕が言うのは、たとえかようなものを多く、いや皆学んでみたところで、事柄がどうあるかということが、それだけ余計に知れるというものではなく、名辞〔の意味〕の相違を利用し、小股をすくって投げ倒しながら、人々に戯れかけることができるくらいのものだからだ。ちょうどそれは、腰を下ろそうとしている人々の小椅子を、こっそり後ろにひっぱる奴らが、人の後ろざまにひっくりかえったのを見て、喜び笑うようなものなのだ。(「エウテュデモス」山本光雄訳:278BC:『プラトン全集8』(岩波書店)、p. 21)
クレイニアスは言う。
「僕に言いたまえ、ソクラテス、それから、この若者が知恵のある者になることを望んでいると言っているその他の諸君、その言葉は戯談(じょうだん)なのか、それとも実際ほんとうに望んでいることなのか、本気なのか」と彼は言った。
そこで私は考えた、して見ると、さっき両人に若者と問答をしてくれるようにと願った時にはわれわれが、戯談を言っていると思ったのだな、それだからこそ戯れかけて本気ではなかったのだな、と。さて、こんなことを考えて私は一段声を高めて「私たちは、それはもうとても本気なのです」と言った。(同:283BC、p. 35)
プラトーンの『ソピステース』の中で、テアイテートスはエレアーからの異邦人に対して、ソフィストが〈旅回り芸人の一類に属している〉、文字通りに言えば〈遊戯にたずさわっている〉人間だということを承認している。(ホイジンガ、同、p. 257)
エレアからの客人 だからこそ、われわれここにいる者はみんな、何とかして君がつらい経験なしに、ものごとの真相にできるだけ近づくようにしてあげようと努めるつもりだし、また現にこうして努めているのだ。――しかしそれはそれとして、ソフィストについて次の点を答えてくれたまえ。ソフィストとは実物を真似てその似姿を作るところの、一種のいかさま師であるということは、もはや明らかだろうか? それとも、反論して渡り合う能力があると思われているすべての事柄について、ほんとうにソフィストは知識をもっているのではあるまいかという疑いが、まだわれわれに残っているだろうか?
テアイテトス どうしてそんなことがありえましょう、お客人。いや、これまで言われたことから考えて、ソフィストとは、〈遊びごと〉にたずさわっている者たちのひとりであることは、もはや明らかだといってよいでしょう。(「ソピステス」藤沢令夫訳:234E-235A:『プラトン全集3』(岩波書店)、p. 58)
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