ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(83)ソフィストのみが遊戯するわけではない
エレアからの客人は続ける。
エレアからの客人 そうすると、彼は一種のいかさま師であり、物真似(ものまね)師であると考えなければならない。
テアイテトス もちろん、そう考えなければなりません。
工レアからの客人 さあそれでは、いまやもうわれわれの仕事は、この獲物をもはやけっして逃さないようにするということだ。われわれはこのソフィストという獲物を、議論のなかでこの種の狩に使う道具のひとつである網の中に、ほぼ囲みこんでしまったのだからね。彼はもう少なくともこのことだけは逃れられないのだ。
テアイテトス どのようなことを、ですか?
エレアからの客人 手品師たちの種族に属する者のひとりである、ということだ。
テアイテトス そのことなら、この私も彼について同じように考えます。
エレアからの客人 ではこれで、われわれのなすべきことは決まった。すなわち、われわれはできるだけ速やかに、〈影像(似像)作りの技術〉を分割しなければならない。そして、われわれがこの技術の領域の中へ踏みこんだときに、もしそこで直ちにソフィストがわれわれを待ち伏せして抵抗してくるのであれば、われわれの王なる理(ことわり)の命ずるところに従って彼を逮捕し、王に引渡してこの獲物のことを告げ報(ほう)さなければならない。
またもし彼が、この〈真似る技術〉のなかのさまざまの部分のどこかに潜伏の場所を求めるようであれば、彼をかくまっている部分をそのつど分割しながら、彼がつかまるまで、あとをつけて追跡して行かなければならない。いずれにせよ、このソフィストにしても他のどのような種類の者にしても、このように個別的でしかも包括的な追求をなしうる人たちの行なう探求を、逃れおおせたと自慢するような事態には、けっしてならないだろう。(「ソピステス」藤沢令夫訳:235A-C:『プラトン全集3』(岩波書店)、pp. 59f)
存在の問題について意見を述べることを強要されたパルメニデースはまず、この仕事は〈むずかしい遊戯を遊戯することですね〉といい、それから存在の最も深い根本問題に赴(おもむ)くのである。しかもそれらはすべて、問答遊戯の形式によって行なわれている。〈「1」は部分を持つことができない。無限界であり、つまり無形式なものです。それはどこにも存在しないものであり、運動なく、時間なく、知ることのできないものです〉。しかし、やがて論議は一転して再びもとに戻ったかと思うと、再び逆転し、3度もとに戻る。論議は梭(ひ)のように行きつ戻りつを操りかえす。こうして、この動きの中で、知識は高貴な遊戯という形式を帯びてゆくのだ。ソフィストのみが遊戯するわけではない、その点ではソークラテースも、いやプラトーンさえも同様なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 257)
※梭:機(はた)織りで、よこ糸を巻いた管を入れて、たて糸の中をくぐらせる、小さい舟形のもの。
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