ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(84)プラトンの対話は遊戯のような芸術形式
プラトーンにあっては、対話はいつも変わりなく軽快な、遊戯のような芸術形式なのである。それを証拠立てているのが『パルメ二アース』の小説的構成と『クラテュロス』の冒頭の部分とである。この2篇の気楽な、くだけた調子、また他の多くの対話のそういった調子がつまりそれなのだ。道化芝居とのある種の類似は、事実見まがうべくもない。『ソビステ-ス』の中では諧謔(かいぎゃく)的なやり方で、古い哲学のいろいろの根本原理が触れられている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 258)
エレアからの客人 私にはね、パルメニデスにしても、またその他誰にせよこれまでに、ある(実在する)ものがどれだけの数あって、どのような性質のものであるかを規定し裁定するという仕事に立ち向かった人はみな、どうも気楽すぎる仕方でわれわれに語りかけてくれたように思えるのだよ。
テアイテトス どのような点でですか?
エレアからの客人 つまり、どの人もどの人も、まるで子供に語り聞かせるような具合に、何か物語(ミュートス)めいたことをわれわれに話しているという感じがするのだ。すなわち、或る人によれば、ある(実在する)ものは、3つであって、そのうちの或るものは時には互いに戦い合い、時にはまた互いに親しくなって、結婚し、子供を産んで、その子供たちを養い育てるのだという。また別の人は、ある(実在する)ものは2つであって、〈湿ったもの〉と〈乾いたもの〉、または〈熟いもの〉と〈冷たいもの〉がそれであると言い、それらをいっしょに住まわせ、結婚させている。これに対して、われわれのところのエレア族は――これはもとクセノバネスから、またさらにそれ以前から始まるのであるが――、万物と呼ばれているものは実は1つのものである、という考えに立って、その立場から彼らの物語において話を展開しているのである。
他方、何人かのイオニアのムゥサ(詩神)たち、またこれより後れてシケリアのムゥサたちは、両方の考えを結び合わせるのが、――そしてあるもの(実在)は多であるとともに一であって、憎しみと愛とによって統合されているのだと語るのが、最も安全であると考えるにいたった。すなわち、「それはつねに、仲違(なかたが)い(分裂)することによって和合している」と、このムゥサたちのなかでも、より張りつめた調べをもつ者たちは主張する。これに対して、より緩やかな調べのムゥサたちは、そのあり方がつねにそうであるという点を弛(ゆる)めて、万有はむしろ交互に、あるときはアプロディテ(恋の女神)の力によって一となり互いに親しくなるが、あるときは一種の争いのために多となり互いに敵対し合うのである、と語っている。
これらすべての事柄について、以上挙げたうちの誰かの説がはたして真実であったか、それとも誤っていたかということは、判定のむずかしい問題であるし、名の高い古人たちに対して、そのような重大なことで言い掛りをつけるのは、場違いなやり方というべきだろう。(「ソピステス」藤沢令夫訳:242C-243A:『プラトン全集3』(岩波書店)、pp. 81f)
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