ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(87)哲学は邪魔物
哲学の諸段階の継起した順序は、おおよそ次のように見ることができる。まずそれは遥かな原始時代に、聖なる謎解き遊戯と弁論術から出発したが、それでいて同時に、祝祭の余興の機能を満たすものでもあった。祭儀的な側面では、そこから深遠な神智学やウパニシャッド哲学、ソークラテース以前の哲学が生まれ、遊戯的側面ではソフィストの業績となった。しかし、この2領域の別は絶対的なものではない。プラトーンは哲学を最も高貴な真理追求のわざとして、ただ彼のみが達し得る高い境地へ引き上げた。しかしそれは、常に彼の哲学の要素である軽やかな形式においてであった。
しかしそれと同時に、一方では哲学がより低い形式の中で、知的な瞞着(まんちゃく)、機知の遊戯、ソフィスティーク、そして弁辞学となって栄えつづける。ところが、ギリシア世界では闘技的因子が非常に強いものであったために、弁辞学は純粋哲学を犠牲にして膨れ上がり、かなり広い範囲の大衆の文化というものになって、哲学を蔭に追いやったばかりか、それをあわや、窒息させるばかりになった。
ゴルギアースが、そういう高い教養の頽廃(たいはい)の典型である。彼は深く沈潜した知識に背を向け、きらびやかな言葉の力を讃え、それを乱用することに堕(だ)した。アリストテレ-ス以後、哲学的思弁の水準は低下していった。極端に走った競技と杓子定規的な学問に逸脱した哲学が、手と手をたずさえて世にはびこった。ちなみに、こういうことはこの時一度だけではない。中世も後期、事物の最深最奥の意義を把えようとした大スコラ哲学者の時代の後に、単なる言葉や常套(じょうとう)語を以(もっ)て足れりとする時代がつづいた時にも、同じようなことが繰り返されている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 259f)
善悪、真偽、美醜は、必ずしも深く考えれば判然とするわけではない。深く考えれば考えるほど、余計に混沌(こんとん)としてくることも少なくない。それが哲学というものだ。
問題は。人々を介在させれば、真実が歪(ゆが)むということである。世間が求めるのは単純明快さである。真偽は別にして、はっきりとした物言いが好まれる。そういう場合、哲学はむしろ邪魔物でさえある。
分かり易いことが「善」なのであり、受け入れ易いものが「真」なのである。飾り立てられようが、化粧を施されようが、見場(みば)の良さこそが「美」なのである。人々が欲しているのは、そういうものなのだと思われる。
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