ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(89)音楽と詩

 遊戯は実際生活の合理性というものの外にある、必要とか利益とかの領域の外部にある、とわれわれは言った。この点では、音楽的表現、音楽的形式も同じことである。遊戯の価値は理性、義務、真理などの規範の外にある。音楽また然(しか)り、である。音楽の諸形式の価値、音楽の機能の力は、論理的な概念を超えた規範によって、われわれの目に見え、手に触れ得るものの彼岸(ひがん)にある規範によって、決定されるのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 271)

 <遊戯>は、非日常的なものである。だから、<遊戯>は、日常生活における規範とは異なった特別な規範の下にある。音楽も<遊戯>の1つであるから、そこには特別な規範がある。

それらの規範は独特の、特殊な名前でだけ呼ぶことができる。そして、それらの名前はリズムとかハーモニーのように、遊戯、音楽のいずれにも適用することができる。リズムもハーモニーも、完全に同じ意味で遊戯の因子であるとともに、音楽の因子でもある。しかし、詩の場合には言葉というものがあって、部分的に、詩を純粋に遊戯的な領域から、観念と判断の世界へ置きうつすことができる。これに反して、純粋に音楽的なものは常に遊戯領域の中を漂っていて、そこから出てゆくということはない。

 <詩>は、専ら非日常的な音楽とは違って、日常世界と非日常世界を行き来する。<詩>は、非日常世界に遊ぶこともあれば、日常世界の現実という拘束を解いて、観念の世界を自由自在に描写することも出来るのだ。

 古代文化においては、詩の言葉は強く典礼的、社会的機能を帯びていた。その原因は、当時の段階では、詩的な言葉はただ音楽として誦(しょう)される形でだけ聴くことができるものだったという事情と、きわめて深い関連がある。純粋の祭祀(さいし)はすべて歌われ、踊られ、遊戯されるものなのである。後世の文明の担い手であるわれわれの心を、まさに古代人の感じた通りの神聖な遊戯という感情でさし貫くことのできるものは、音楽をおいて他にはない。その上、定形に固定してしまった宗教的観念とは無関係に、音楽を享受することの中では美の感覚と奉献の感情が融合して1つになっている。この融和の中では、遊戯と真面目の対立などは消え去ってしまうのである。(同)

 日本人にとって、「雅楽」がまさにこれに当たろう。雅楽の荘厳で清澄な調べは、日常の喧騒(けんそう)を打ち消してし、我々を非日常の聖なる世界へと誘(いざな)うのである。

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