ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(90)音楽の太古における広い役目
音楽という言葉は、ギリシア人にとって、われわれ近代人のその言葉より遥かに広い範囲に亘(わた)るものであったことは、周知の事実である。それは単に歌や楽器の伴奏による踊りを含むだけでなく、一般にアポローンとムーサイ(ミューズ)の神々に司(つかさ)どられるすべての芸術、技芸に当てはまるものであった。これらはすべて、ミューズの分野の外にある造形芸術、機械的芸術に対して、ミューズ的芸術ということができる。そして、すべてミューズ的なものは祭祀ときわめて深い繋がりがある。中でも、その固有の機能が発揮される場である祝祭との関係は、非常に深いものがあった。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 272)
音楽は、現代人における趣味・嗜好以上のものを太古の人々にとって意味していた。特に、祝祭における音楽が果たす役割は大きなものがあった。
〈神々は苦悩のさだめを受けて生まれた人類への憐(あわ)れみごころから、彼らの心労に対する安息の時間として、祭礼というものを制定した上、さらにミューズの神々やその長たるアポローン、そしてディオニューソスらの神々を、人間の祝祭の仲間にお加え下さったのです。つまり、これは、神々と祝祭を共にすることによって、人間界に物事の秩序を打ちたてるためなのです〉。(同)
プラトンは、次のように書く。
アテナイからの友人 神々は、労苦をになって生まれついた人間の種族を憐れみ、その労苦からの休息となるように、神々への祭礼という気晴らしを定めてくれました。さらにまた神々は、ムゥサたち(音楽・芸術の神)とその指揮者アポロン、およびディオニュソスを、祭礼を矯正する目的をかねた同伴者としてあたえられるとともに、その神々と一緒になって行なう祭礼において生じる、心の糧をもあたえられたのです。
さて、このことに関し、近頃しきりにわたしたちの間でやかましく言われている説が、事の自然にかなった真実を伝えているかどうか、よく見てみる必要があります。その主張によると、若者というものはほとんどすべて、身体の面でも音声の面でもじっとしていることができず、たえず動き、声を出すことをもとめている、というのです、――ある者は、たとえばいかにも楽しげに踊ったり遊戯したりしながら、飛んだり跳ねたりするし、またある者は、ありとあらゆる声を立てたりする。ところで、他の動物たちは、リズムとハーモニー(階調)の名で呼ばれる、運動における秩序と無秩序の感覚のいずれをも持ってはおりません。しかし、わたしたち人間の場合は、踊りの同伴者としてつかわされたとわたしたちの語ったあの神々が、さらにリズムとハーモニーを楽しみながら感じる感覚をも、さずけてくださったのです。じつにこの感覚をとおして、神々はわたしたちを運動させ、また歌と踊りでわたしたちお互いをつなぎ合わせながら、わたしたちの踊りの先頭に立たれる。さらに神々は、それに歌舞団(コロス)という名前をあたえられたのですが、それは、本来そこに喜び(カラ)がそなわっているところから、その「カラ」という名前にちなんだわけです。
(「法律」森進一・池田美恵・加来彰俊訳:653D-654A:『プラトン全集13』(岩波書店)、p. 120)
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