ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(92)音楽の目的
《いまや確立された学習は、さきに述べられたとおり2つに方向づけられる。通常人びとが教えるのはだいたい4科目である。読み書き、体育、音楽、そして第4に場合によっては図画である。読み書きと図画を教えるのは、それらが生活のために有用で、いろいろ応用できるからである。これに対して、体育は勇気の徳に貢献するからである。しかし音楽に関しては、人はただちに疑問とするであろう。というのは、今日ではほとんどの人は楽しみのためにそれに与(あず)かっているからである。しかし人びとが最初に音楽を教育科目のなかにいれたのは、いくども述べられたように、自然それ自身が、たんに正しく仕事にはげむばかりでなく、善美に閑暇(かんか)を過ごすことができるように求めるからである。なぜならこの善美に閑暇を過ごすことこそ、他のすべての出発点だからである》(アリストテレス『政治学』(京都大学学術出版会)牛田徳子訳:1337b、pp. 407f)
この考え方は、われわれの間で普通にとられている立場の倒置である。これは、ギリシアの自由人は、もともと賃金労働からは解放されているというのが建前であり、そのために、高尚(こうしょう)な、教養ある問題にたずさわって人生の目的――すなわちテロス――を追求するということが可能だったのだ、という事実の光に照らして考えなければならない。
そこで、問題はどうやって自由な時間を使うか、ということになってくる。遊戯をして時間をすごすのではない。それでは、遊戯は人生の目的になってしまうだろう。いや、それにアリストテレースにとって、遊戯はただ、子供の遊びとか快楽とかを意味するにすぎないのだから、そういうことは不可能である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 275)
アリストテレスは、音楽をただの娯楽ではなく教育すべきもの、教育に値するものとして考えている。音楽を学ぶのは、善美に閑暇を過ごせるようになることこそが<すべての出発点>と考えるからである。
《善美に閑暇を過ごすことは幸福であることにほかならない。われわれが他のすべてを求めるのはこれを自助とするからである》(アリストテレス、同、p. 409)
遊戯することは心に解放と安息とを与えるものだから、一種の薬として仕事から放たれて休養するというだけの役には立っている。ところが、閑暇にすごす、自由な時間を持っているということは、それだけでもう快楽を楽しむこと、幸福、生の悦びなどを含んでいるように思われるのである。そこで、この自分がまだ持っていないものを得ようとして何かを追求するということではなくして、この幸福が生の目的である、ということになる。(ホイジンガ、同)
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