ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(93)先人が音楽を教育科目に入れた理由

《閑暇を過ごすことそれ自体は、快と幸福と至福な生を含むと考えられる。これは仕事に忙殺される者には与えられず、閑暇のうちにある者に与えられる。なぜなら、仕事に従事する者は、なんらかの目的となるものをまだ所有していないので、そのために仕事をするのであるが、幸福――労苦をともなわず、快をともなうとすべての人が考えている幸福――は、これに対して、目的であるからである。

ただし、その快でもって彼らすべてが同じものを考えているわけではない。各人はそれぞれの立場とみずからの条件に応じて快なるものを考えているのであるが、最善の人にとってはそれは最善の快であり、最善美の事柄から生じる快であるとみなされるのである。したがって明らかに、ある種のものは閑暇のときの過ごし方を目標として学ばれ、教えなければならない。しかも、そうした教育や学習は、それ自体のためになされるのに対して、仕事を目標とする教育、学習は、必要なものとして、かつそれ自体以外のほかのもののためになされるのでなければならない。

 先人が音楽を教育科目にいれたのはまさしくそのゆえである。必要不可欠な科目だからではない――音楽はまったくそういう性質のものではないから――。また役に立つ科目だからでもない――読み書きが、金儲けや家政や勉学や国家に関するさまざまな活動のために役に立ち、また図画が思うに、技工の作品についていっそうよく判断するために役に立ち、さらにまた体育が、健康と力強さのために役に立つようには――。なぜなら以上のどんな成果も音楽から生じないのはわれわれにとって明瞭だからである。そうすると残るのは、それが閑暇のうちにときを過ごすためにあることである。まさしくこのことのために、明らかに先人は音楽を導入したのである。というのは彼らの考えでは、自由人にふさわしい、時の過ごし方のうちにその位置を与えたからである》(アリストテレス『政治学』(京都大学学術出版会)牛田徳子訳:1338app. 407f

 こういうアリストテレースの言葉の中では、遊戯と真面目の境界線は、われわれのそれとは非常に大きく違っている。そしてその評価に対する基準も、われわれの基準によって測れば、著しく移動している。ディアゴーグーは、ここではそれと気づかれぬうちに、自由人にふさわしいような知的、ないしは美的な事柄に従事すること、それらを享受することという意味を獲得している。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 276

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