ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(94)音楽教育の不合理

《若者が教育されるのは遊びのためではない――これは不明なことではない。というのは彼らは、学んでいるとき遊んでいるわけではないからである》(アリストテレス『政治学』(京都大学学術出版会)牛田徳子訳:1339a、p. 414)

 ここでアリストテレスの言う狭義の<遊び>は、我々が日常的に使っている<遊び>のことであって、ホイジンガが非日常性という意味で用いている広義の<遊び>とは意味が異なっているので注意して頂きたい。

《学びは骨の折れることである。しかしまた、閑暇(かんか)のときを過ごすことを、その年頃の子供に許すことは適切でない。なぜなら終局目的は、いかなる未完のものにもそぐわないからである。しかし子供の真剣な勉学は、いずれ大人になり、成長を遂げたとき彼らが楽しむような遊びのためにあるのだ、とおそらく人は思うだろう。しかしもしそうだとしたら、なんのために子供たちみずからが音楽を奏(かな)でることを学ばねばならないのであろうか。そしてベルシアやメディアの王たちがしているように、他人に音楽を奏でさせて、快楽と学びに与(あず)かっていけないわけがあろうか。なぜなら音楽そのものを自分の仕事、自分の術(すべ)とした者ならば、学習のために必要な時間だけを音楽に費(つい)やす者より上手に奏でることは当然だからである。しかし、もし子供みずからが音楽演奏にけんめいにはげまねばならないとすれば、料理の仕事もみずから会得(えとく)しなければならないことになろう。しかしこれは不合理である》(アリストテレス『政治学』(京都大学学術出版会)牛田徳子訳:1339app. 414f

 音楽の享受ということはそういう行為の最終目的――テロス――に接近している。何故なら、それは未来の善のためではなく、そのこと自体のために追求されるものだからである。

 こうしてこの思想は、音楽を、高貴な遊戯と、自立的な、それ自体のために行なわれる芸術享受の中間の領域に置くわけである。しかし、ギリシア人のこういう音楽観も、音楽に対して非常にはっきりと技術的、心理的機能、そして道徳的機能を与えようとする別の信念と交錯する。音楽はミメーシス的、つまり模倣的芸術とされるのだ。その模倣の効果は能動的な種類のものであれ、あるいは受動的な種類のものであれ、何らかの倫理的な感情を喚起するということにある。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 276

 音楽は、閑暇の時間を埋める高貴な遊戯であると共に、自ら演奏し、歌って享楽を得るという側面もある。が、ここで新たな問題として登場したのが「模倣」(Mimesis)というものである。

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