ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(95)模倣の対象
どんな歌の旋律も、音階も、舞踊の身振りも、何かを表現したり、表わして見せたり、描き出したりしている。そして、その表出されたものの善悪美醜の如何(いかん)によって、音楽に善とか悪とかの性質がつけ加わるのだ。この点にこそ音楽の高い、倫理的、教育的価値がある。模倣されたもの(音楽)を聴くことが、その模倣された感情そのものをよびさますのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 276)
アリストテレスは、「模倣」(μίμησις)について、次のように書いている。
模傲するひとたちは行為するひとたちを模倣するのであるが、これら行為する人間たちは必然的に高貴なひとたちか、下賎のものたちかでなければならない(というのは、性格はほとんどつねにこのひとたちにのみ伴うからである。〔つまりこれらのひとたちはみな悪徳と徳の点でその性格が相違するからである〕)。以上のようであれば、模倣される人間たちはわれわれ通常のものよりいっそう優れたひとたちか、あるいはそれ以下のものたちか、〔あるいはまたこういったものたちなの〕である。(アリストテレス「詩学」第2章:村治能就訳:1448a:『世界の大思想4』(河出書房新社)、p. 356)
模倣する対象は、どこか模倣するに値する特徴的なところがなければならない。それは、人並外れて優れたものか劣ったものが対象ということになろう。一方で、日頃自分たちが気に留めぬ、謂わば「あるある」を思い起こさせる凡庸な模倣というものもある。
それはちょうど画家たちが描いているとおりである。すなわちポリュグノトスはいっそう優れたひとたちを、パウソンははるかに劣ったものたちを、〔ディオニュシオスはわれわれと似たものたちを〕模倣し描いているからである。すでにのべた模倣のそれぞれもこうした相違をもつであろうこと、そしていまのべた仕方で異なった対象を模倣するから、異なったものになるであろうことは明らかである。
また、じっさい、舞踊や笛吹きや立琴弾きの場合にもこれらのちがい(アノモイオテータ)が生じうるし、また散文や音楽を伴わない詩歌の場合もそうである。たとえば、ホメロスはいっそう優れたひとたちを、〔クレオフォンは通常のものたちを、タソスのひとへゲモンははじめて、パローイディアイをつくって、またニコカレスは『デイリアス』をつくって、下等なものたちを模倣している。またディテュラソボスやノモスにおいても同様に、ちょうどティモテオスやフィロクセノスが***大地母神や円眼の怪物を描いたように、ひとは型のちがいを模倣することができるであろう。まさにこのちがいにおいてまた悲劇は喜劇に対してへだたっているのである。なぜなら、後者は世間並みのものよりも劣ったものたちを模倣しようとし、前者ははるかにすぐれてよいひとたちを模倣しようとするからである。(同)
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