ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(97)職業音楽家は下民

 模倣という概念を用いて、プラトーンはまた芸術家のあり方を言い換えている。彼は言う、〈模倣者、これはすなわち創造的芸術家であると同時に、再現的芸術家でもあるのだが、彼自らは、自分がそうして再現して表わしたものが、はたして善であるのか悪であるのかは知らない。模倣とは彼には1つの遊戯であって、真面目な仕事ではない〉。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 277)

 ソクラテスは言う。

「真似る人は、彼が真似て描写するその当のものについて、言うに足るほどの知識は何ももち合わせていないのであって、要するに(真似ごと)とは、ひとつの遊びごとにほかならず、まじめな仕事などではないということ、そして、イアンボスやエボスの韻律を使って悲劇の創作にたずさわる人々は、すべてみな、最大限にそのような(真似ごと)に従事している人々である」(「国家」602B:『プラトン全集』(岩波書店)藤沢令夫訳、p. 710


これは悲劇詩人についてもそうである。彼らとてもみな模倣者でしかないのだ。こういうふうに芸術の創作活動をかなり貶(おと)しめ、低く評価するように見える傾向の真意はいったいどこにあったのか。だがそのことは、今は取り上げずにおいて差支えない。要するにそれは完全に明晰なものではないのだ。われわれにとって大切なところは、プラトーンがこの創造活動を、ここで1つの遊戯として捉えたということにある。(ホイジンガ、同)

 「模倣」の意義が理解されていなかったために、これが評価されることがなかったのだろう。「模倣」とは、不真面目な、すなわち、遊びであり、只の「物真似」、「真似事」に過ぎなかったのだ。

一切の音楽的活動の本質的なあり方は、遊戯するということにつきている。たとえはっきりとそう言われていない場合でも、この根源的事実は、やはり至るところで認められる。音楽が聴き手を娯(たの)しませ、喜ばそうと、高い美の表現を欲しようと、聖なる典礼的使命を持つものだろうと、常に変わることなく、それは遊戯なのだ。ほかならぬ祭祀の中で、それは屡々(しばしば)かの最高の遊戯的機能、舞踊と内的に結びつく(同、pp. 277f

 音楽がただ奏(かな)でられ、歌われているだけであれば、それは「遊び」と言われても致し方ないのかもしれない。が、他者に求められ、例えば、祭礼で演じられるような場合、詰まり、現実的世界に引き戻される場合は、もはや「遊び」と言うべきものではなくなっているに違いない。

 古くから音楽の機能として認められていたのは、高尚な社会的遊戯という点である。屡々、特殊な技術をもって驚嘆をかきたてる業(わざ)が、それの最も本質的な部分と見なされたものだ。しかし、演奏家その人は、長い間低く見下され、従属的位置におかれていた。アリストテレースは職業音楽家を下民(げみん)と呼んでいる。(同、p. 278

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