ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(98)踊りもまた遊戯である
If in everything that pertains to music we find ourselves within the play-sphere, the same is true in even higher degree of music's twin-sister, the dance. -- J. HUIZINGA, Homo Ludens
(音楽に纏(まつ)わるあらゆることが遊びの世界内にあるとすれば、より高い次元で、音楽の双子の妹である踊りについても同じことが言える)―
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』
danceを「舞踊」と訳すのか、「舞踏」と訳すのか、はたまた、「踊り」とするのか、「ダンス」とするのかで随分心象が違ってくるように思われる。これは日本語という言葉が豊かであることの贅沢な悩みである。ここでは最も広い意味で一般的な「踊り」としておこう。
Whether we think
of the sacred or magical dances of savages, or of the Greek ritual dances, or
of the dancing of King David before the Ark of the Covenant, or of the dance simply
as part of a festival, it is always at all periods and with all peoples pure
play, the purest and most perfect form of play that exists. – Ibid.
(未開人の神聖な踊りであれ、魔術的な踊りであれ、ギリシャの儀式的な踊りであれ、契約の箱の前でのダビデ王の踊りであれ、単に祭りの一部としての踊りであれ、それは常に、すべての時代、すべての民族で、純粋な遊び、存在する中で最も純粋で最も完璧な形式の遊びなのです)―
同 ※契約の箱(Ark of the Covenant):モーゼの十戒(Ten Commandments)を刻んだ2枚の石板が納められているチェスト。
「踊り」は非日常的であるのだから、「踊り」が「遊戯」であると類推することに特に異論はない。
造形芸術の中にも、至るところに遊戯因子が指摘される。古代文化の中では、具象的な芸術作品は、それが建造物であろうと、絵画であろうと、衣服とか精巧に装飾された武器であろうと、たいていその機能の場、その使命を祭祀の中に持っていたのである。芸術作品は、殆(ほと)んど常に、祭儀的世界にかかわりを持ち、潜勢的に祭儀としての力を帯びていた。すなわちそれは、魔術の力、聖なる意味、宇宙万物との表現的一致、象徴価値を担っていた。要するに、これは奉献性ということである。さきに説明したように、奉献と遊戯とは極めて密接に結びついたものだから、ここで祭祀の持つ遊戯的なものが、何らかの点で造形芸術の創造と評価の上に光を投げかけていないとすると、これは訝(いぶか)しいことだと思う。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 284f)※潜勢:内にあって外に現れない勢力。
古代文化における芸術作品が奉献的なものであり、奉献的なものが遊戯的なものであったということからして、造形芸術に遊戯性が認められるということはごく自然なことだ。
およそ社会生活の大きな基本形式が抬頭(たいとう)して来る時代には、遊戯因子がそこに極めて活溌に働き、この上なく豊かな稔りをもたらしているが、このことは指摘するのにむつかしくはなかった。社会的衝動としての遊戯的競争は文化そのものよりも古いが、それは遠い原始時代から生活を充たし、古代文化のさまざまの形式を酵母のように発育させるものだった。(同、p. 294)
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