ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(99)音楽と美

祭祀は聖なる遊戯の中に発達した。詩は遊戯の中に生まれ、いつも遊戯の諸形式から最高の養分を吸収して来た。音楽と舞踊は純粋な遊戯であった。知識、英知は祭式的競技の言葉の中に、その表現を見出した。法律は社会的遊戯の慣例から生じた。戦争の規定、貴族生活の慣例は、遊戯形式の上に築かれた。結論はこうなるはずである。文化はその根源的段階においては遊戯されるものであった、と。それは生命体が母胎から生まれるように、遊戯から発するのではない。それは遊戯の中に、遊戯として発達するのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 294)

というのが本書の大筋であり大意である。

 一般に音楽には、その本質として遊戯性があることは、改めて言うに及ばない…音楽は人間の遊戯能力の、最高の、最も純粋な表出である。音楽的時代として見た時、18世紀の有する最も高い意義は、主として、当時の音楽の遊戯内容とその純粋な美的内容とのあいだに保たれた平衡にある、と解釈しても、それは決して無謀とは思えない。(同、p. 314

 「遊び」の中の「美」という、より上級の「卓越さ」が追求されたということだ。

音楽の純粋に美的な内容に音楽の遊戯内容を対比させてみるならば、その違いは…まず、音楽的諸形式はそれ自体が遊戯形式である。音楽は音、タイム、旋律、和音の体系に規定された伝統的規則への自発的服従と、その精密な応用の上に立っている。このことは、他の分野でそれまで通用してきたすべての規則が顧みられなくなった時でも、なおかつそうであると言うことができる。(同、p. 315

 音楽は、優れて保守的なのだ。音楽家も、音楽奏者も、音楽愛好家も、音楽の伝統に棹差(さおさ)すことが、最も音楽の恩恵に与(あずか)れるということを知っているということだ。

さて、この音楽的諸価値の体系は、よく知られているように、それぞれの時代、それぞれの地方によってみな異なっている。どれほど鮮かに統一された音楽的目的、音楽的形式であっても、東洋音楽と西洋音楽を、あるいはまた中世音楽と現代音楽を結びあわせることはできない。いかなる文化も、それに固有の音楽的約束を持っているし、また一般に耳というものは、よく聴き慣れた音響形式だけしか耐えられないからである。(同)

 音楽は本来、普遍的なものである。が、時代によって、場所によって受け入れられる音楽は異なる。音楽は、これを受け入れる人々がいる。その好みは、時代性があり、地域性があるのだ。

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