ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(106)「ポピュリズム」と「ポピュラリズム」

<最も大きな民衆の声>を権力の源泉とする政治文化には危険な影が付き纏(まと)う。それが「ポピュリズム」である。

 佐伯啓思氏は言う。

《古代ギリシャやローマの政治家がしばしばそうであったように、大衆政治家は、多かれ少なかれポピュリズムへとなびくが、それは民主主義の歪(ひず)みというよりも、むしろ民主主義の本質といわねばならない。少なくとも、民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは、民意を獲得するための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかなかろう。民意を敵に回してでも真に重要な決断をすることを政治家に求めるならば、「民主主義は民意の実現」などというわけにはいかないのである》(「壊れゆく民主主義 『民意』こそが危機を生み出す」:『佐伯啓思の異論のススメ スペシャル』朝日新聞20221227日)

 populismは、例えばCambridge Dictionaryでは、次のように定義されている。

political ideas and activities that are intended to get the support of ordinary people by giving them what they want

(大衆が欲しいものを与えることによって、大衆の支持を得ようとする政治思想や活動)

 が、西部邁氏は、これは「ポピュリズム」と言うのは誤りで、「ポピュラリズム」と呼ぶべきだと言う。

《僕がここであえてポピュラリズムという言葉を使っているのは、ポピュリズム(人民主義)にはかなりに正当な意味合いがあったからである。つまり困窮せる人民の状態をどうしてくれる、というのがポピュリズムの本来の姿なのであった。今の人気主義はそれとは異なって、マスメディアにおいて浮動するムード(雰囲気)が政治を差配することをもって(間違って)ポピュリズムと呼んでいる。

 人気のことを英語でポピュラリティということにもとづいて、僕はこの民主主義の断末魔めいた不安定な政治を指してポピュラリズムと呼び変えたいのである。これは帝政期ローマにおける「ヴォクス・ポプリ、ヴォクス・デイ」(民の声は神の声)というドンチャン騒ぎの再現とみえてならない》(西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)、p. 33

☆ ☆ ☆

Though there may be abundant traces of play in domestic politics there would seem, at first sight, to be little opportunity for it in the field of international relationships. The fact, however, that these have touched the nadir of violence and precariousness does not in itself exclude the possibility of play. As we have seen from numerous examples, play can be cruel and bloody and, in addition, can often be false play. –- J. HUIZINGA, Homo Ludens

(国内政治には遊びの痕跡が豊富にあるとしても、国際関係の領域では、一見、遊びの機会が殆どないように思われるでしょう。しかしながら、国際関係が暴力と危険性の最悪の状態にあるからといって、それだけで遊びの可能性を排除するものではありません。多くの例から分かるように、遊びは残酷で血なまぐさいものであり得るし、加えて、しばしば偽りの遊びでもあり得ます)―ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、cf. 高橋訳、p. 345

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