【新連載】アダム・スミス『道徳感情論』(0)前書き 

アダム・スミスの倫理体系における中心概念に、「公平な観察者」(impartial spectator)というものがある。

The impartial spectator is an imagined ‘man within the breast’ whose approbation or disapproval makes up our awareness of the nature of our own conduct. Smith is concerned to give an explanation of the voice of conscience, without departing totally from the sentimentalist and naturalistic tradition of Scottish moral philosophy. Conscience is not a mysterious or inexplicable force, since ‘the jurisdiction of the man within is founded altogether on the desire of praise-worthiness and in the aversion to blame-worthiness’ which underlies our ‘dread of possessing those qualities, and performing those actions, which we hate and despise in other people’ (Theory of the Moral Sentiments, iii. 2. 33). -- Oxford Reference

(公平な観察者とは、想像上の「胸中の人物」であり、この人物が賛同するか非難するかによって、自分の行為の性質が分かる。スミスは、スコットランド道徳哲学の感情主義と自然主義の伝統から完全に逸脱することはなく、良心の声について説明しようと努めている。良心は、「内なる人間の権限は、賞賛に値する欲求と、非難に値する嫌悪に全く基づいている」のであるから、神秘的な力でもなければ、不可解な力でもない。その欲求の根底にあるのは、「私達が他人の中に憎んだり軽蔑したりする資質を有(も)ち、そのような行為を行うことの畏怖である)

西部邁氏は言う。

《自分を解釈することによる自己の改変に際しては、アダム・スミスのいったimpartial spectator「偏りのない(公平な)観察者」を自分の精神のうちに受け入れなければならない…スミスは、その「公平な観察者」は「sympathy」(同情)を持っていると考えました。つまり、「人々が情感を同じくする」という人間精神の共通の地盤の上に各自が自立するときにはじめて、歴史の連続性と社会の統一性が保たれるということでしょう。

 ただし、彼のいう「同情」を――compassion(共感)とよんでも同じことです――過度に感情的なsubstance(実体)ととらえてはなりません。人々のcommunity(共同体)の基底はたしかにGemeinschaft(感情共有体)ではあるのですが、その共有体のさらに基底の次元には、人々の感情のやりとりにかんするルールというform(形式)が横たわっていると考えられます。またその形式の表層にはwritten(成文)の制定法があります。そして、その深層にはunwritten(不文)の慣習法があるとみなすべきでしょう。そうした顕在的かつ潜在的な共有体のルールへの共感、それがスミスのいう「同情」であり、そうであればこそその共感を擬人化してみれば「公平な観察者」とよぶことができるのです》(西部邁『教育 不可能なれども』(ダイヤモンド社)、pp. 27f

(注)原文では英語がカタカナ表記となっていますが、拙者が英語表記に置き換えました。

 一読した程度では、この解説文を十分に理解できない。ここは原点に帰って、スミス『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)を読み直そうと思った次第である。

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