アダム・スミス「公平な観察者」について(17)第三者
《ここに全くの他人がいて、彼が私の境遇に身をおいて私の情念をはかり、その行為を評価する。さらに彼は殺害される隣人の境遇にも身をおく。彼は、私でもなく相手でもなく、いわば中立の立場にいる。こうした中立的な「想像上の境遇の交換」の上に立って、彼は私の行為を評価することはできるだろう。彼が私の行為を是認できないと判断すれば、私の行為は不道徳といわねばならないであろう》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 62f)
人の行為が適切か否か(propriety)を判断するためには、ただ外からその人を見ているだけでは駄目で、その人の中に入り込んで、その人が置かれた立場に立ち、その人の行為が適切か否かを判断しなければならない。が、ここに2つ問題がある。1つは、どこまで人は、他人の中に入り込んで他人の立場に立つことが出来るのかということ、もう1つは、どこまで人は、偏見なく判断することが出来るのかということである。
このことは裏を返せば、自分の問題にも当て嵌(は)まる。普段の自分の行動も、どこまで偏見なく自分が置かれた状況を理解し、どこまで偏見なく自分が行動することが出来ているのかということだ。自分に都合の良い立場を架空し、自分に都合の良い判断をし、自己正当化してしまいがちなのが人間の性(さが)というものなのではないか。だとすれば、「相手の立場に立って考える」ということには相当な無理があるということになる。その無理を承知でスミスは持論を展開しているのだ。
スミスは、キリスト教教義とも合理主義的観念論とも異なる地に足の着いた道徳論を模索した。日常を元に、道徳がどのように形成されるのか、その「原理」を探究しようとしたのである。
《まず第1に、ここに私でも隣人でもない第三者が登場していることに注意しておこう。彼は、どちらか一方ではなく、当事者の両者に対して、「想像上の立場の交換」を行うのである。彼は、どちらに対しても特別な利害関係をもたず、それぞれの立場に対して身をおいてみる。「同感」とは、このような想像の上で当事者の立場へ身をおいてみることそのものなのだ。その上で共感できるかどうかによって判定をくだすのはこの第三者なのである。簡単にいえば、AがBに対して何かを行ったとき、その行為が適切かどうかを判定するには、中立的なCがいなければならないのであり、CがAとBの双方の立場に立って判断するほかないというのだ。つまり、行為の道徳性は、その行為自体の及ぶ範囲で決着がつくのではなく、また行為者の動機によるのでもなく、また被害者の主観的な痛みそのものからくるのでもなく、あくまで第三者によってみられていなければならない》(同、pp. 63f)
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