アダム・スミス「公平な観察者」について(19)「偏見なき自分」
《「中立的な観察者」は、具体的な誰かではない。むしろ抽象的存在である。しかしまた同時に、具体的な個々人を離れてその外部にある宙に浮いた抽象でもない。それは、あくまで個々人の内部で実現するような抽象的存在というべきものであろう》 (佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 65)
詰まり、impartial
spectatorとは、「偏見なき自分」のことだ。人は誰でも大いに偏見を有している。人間は、偏見を有(も)つことから逃れられないと言ってもよいだろう。だから、「偏見なき自分」などというものは現実的に存在しない。詰まり、impartial spectatorとは、現実には存在し得ない抽象的存在ということになる。が、スミスは抽象論を展開したいわけではない。「全(まった)き偏見なき人間」など存在しないとしても、偏見なきよう努力することは可能である。偏見が無いよう出来得る限り努力することによって、それだけ公平な観察が可能だという意味がこの言葉には籠(こ)められているのだと思われるのである。
《われわれは一方で情念に基づいて行為をするが、他方で、つねにこの「中立的な観察者」をわれわれの内にもっているともいえるだろう。われわれは、確かにカッとしてもはや自制のきかない瞬間をもつこともあるが、その場合でも、たいていは後から後悔するものである。とすれば、いちいち他人によって「観察」され「是認」をもらわなくとも、自らの内にこの観察者をもっているものである。しかも、この良心とでもいうべき内部の観察者は、われわれが教育を受け、育つ社会の中で自然に身につけてゆくものであろう》(同)
これは、ある意味、「性善説」に基づくものとも考えられる。詰まり、自分の中には「良心」(conscience)と言うべき汚れ無き心がある。この良心がimpartial
spectatorとなるということだ。
《それゆえ、この観察者は、カントが述べた純粋理性のように、個々人の特性を離れて超越した普遍的なものではなく、あくまで個々人のありようを方向づけているひとつの社会を離れてはありえない。特定の社会の文脈を離れては決して「中立的な観察者」はありえない。と同時に、それは社会そのものを代表したり表象したりするものでもない。「中立的な観察者」は社会の中で形成され、その社会の中で意味をもつのだが、個々人の特異性や個性からは抽象化されているのである》(同、pp. 65f)
詰まり、スミスは、カントとは違い、足が地面から離れないよう、具体的な環境を元にして論理を展開しているということだ。言い換えれば、「現実」という枠組みがあってはじめて「事実」が見えるということに他ならない。
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