アダム・スミス「公平な観察者」について(20)「道徳的な鏡」

《たとえば、われわれは、通常、自分の行動が他人によってどのようにみられるかを多かれ少なかれ気にしている。このときわれわれは、特定の誰それというよりも一般的な他人の目を気にする。つまり、われわれは、多くの場合、「われわれ自身をできるだけ遠くから、他の人々の目をもって見るよう努力する」ものである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 66)

 我々は、「世間の目」を気にしながら生きている。が、それが利害関係のある世間では、我々に対する評価が歪(ゆが)んでしまう。適切な評価を期待するためには、世間は、利害関係のない人達、すなわち、出来るだけ遠くにいる人達でなければならない。

《確かに、最初の道徳的批判は、まずは他人の行為に対して向けられる。それもたいていの場合にはきわめて近い親しい者の行為に向けられる。しかし、それは次には、その同じ原理が自分にも適用されることを知り、われわれ自身が他人にどのように映るかを問題とするようになるだろう。これも最初は、親しい者の評価が気になる。だが、社交の範囲が広がり、社会生活が複雑になれば、この「他人の目」は特定の誰かというよりも、それらを抽象し、一般化した「他人の目」になるだろう。このとき、その他人の目は「社会」そのものを代表することになる》(同)

 適切な評価を期待し得る「世間」とは、すべての現実の利害関係を削(そ)ぎ落した「抽象的存在」ということになるだろう。

《ここで「中立的な観察者」は「社会的なもの」であるとともに、すでにわれわれ自身の内にいるのである。「われわれが、ある程度、他人の目をもって、われわれ自身の行為の適宜性を熟視することができる唯一の鏡となっている」のである》(同、pp. 66f

 具象の世界において、利害関係を無くすように「今・此処(ここ)・私」から離れるのに2方向ある。宇宙の彼方(かなた)に向けて離れるのが1つ、心の中の深奥に向けて離れるのがもう1つである。が、前者は離れれば離れるほど声は届かなくなる。一方、後者は自分の心の中なので、大きくはないが確かな声を聞くことが出来る。スミス流に言えば、それが「中立的な観察者」ということであり、「良心」ということなのだと思われる。

《ここで、一般化された他者の目は「道徳的な鏡」をつくる。スミスの言い方では、それは「胸中の法廷」であり、また「内部の裁判官」と呼ぶこともできよう。ただ重要なことは、この場合の他人は、利害関心をもたない中立的なものであったことからわかるように、家族とか友人とかといった、私の身近にいる誰かではない》(同、p. 67

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