アダム・スミス「公平な観察者」について(21)佐伯解説への疑問

《われわれは、まずは、自然的欲求から、親や教師や仲間といった、われわれと交際する人達を喜ばせたいと考える。しかし、これはつねに、社会一般の要求と整合するとは限らないだろう。そこで、われわれは、父でも兄弟でも友人でもない「中立的な観察者」をわれわれの心の中に設定する。そしてこの「胸中の偉大な同居人」あるいは「内部の裁判官」に相談するという習慣を身につける。だから、この「内部の裁判官」は身近な誰かではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 67

 が、裁判とは中立でなければならないから、〈裁判官〉に相談するということは有り得ない。裁判官は、客観的に判断を下さねばならない。

《それは「第三者の場所から、第三者の目をもって見る者」であり、「その第三者というのは、いずれにしても特別のつながりをもたず、われわれの間で中立性をもって判断する者」なのである。この「中立的な第三者」の目をわれわれの内部にもったとき、われわれは道徳原理を手に入れたことになる》(同)

 が、〈観察者〉自身が〈裁判官〉よろしく判断を下すというのでは、〈裁判官〉自身が情報を提供する〈観察者〉となってしまい、近代的な裁判とは成り得ないだろう。勿論、impartial spectatorjudgeのどちらも自分の内部に存在するのではあるが、たとえ想像上の世界の話とはいえ、それぞれ別人格と架空しなければ客観性が保てない。

《まず注意しておきたいのは、スミスにとっては、たとえばカントが想定したような「確かな主体」としての個人というようなものは存在しないということだ。ここで「確かな」といったのは、自らの内に普遍的な道徳的基準をもち、個人として自立し完結した存在としての個人である。もし、こうした「主体としての個人」が存在すれば、社会とはただ個人の集まりにすぎなくなる。社会とは、「確かな」個人が集まっているだけでもう十分に秩序が保たれるだろう》(同、p. 68

 が、カントの道徳論は、環境が捨象された抽象論である。したがって、具体的状況において、何が道徳的なのかは変わってくる。例えば、時代が変われば道徳も変わるだろうし、国が異なれば道徳も異なる。詰まり、具体的状況を踏まえない抽象的道徳論は、現実的には、あまり役に立たないということだ。

《だが、実際にはそうではない。それはほかでもない、個人が決して自立した「確かな存在」ではありえないからだ。自立した責任をもつ個人などという観念は、せいぜい近代的主体という虚構の内に蜃気楼のように浮かび上がったものにすぎないのであって、それは永遠の錯覚にしかすぎないだろう。だが、だからこそ、つまり、いくら近代的主体などといっても、個人はきわめて不確かなものだからこそ社会が意味をもってくるのだ》(同)

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