アダム・スミス「公平な観察者」について(22)デカルトが疑い得なかった「わたし」

《スミスの友人であったヒユームが的確に述べたように、「わたし」というような確かなものは存在しない。「わたし」とは、ただ、絶えず、世界のさまざまなものを知覚し、経験し、ある種の情念をもち、ということを繰り返している何かにすぎないのであって、あらかじめ、世界(社会)を離れて「わたし」というものが存在するのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 69

 デカルトは言う。

《いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥(しりぞ)けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。

それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺(あざむ)くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。

また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬(ごびゅう)を犯さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。

最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。

けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。

そうして「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第1原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、pp. 44f

 

 が、デカルトは、肝心なところで過ちを犯した。すべてを疑うと言いながら「私」は疑わなかった。勿論、「わたし」を疑ってしまえば、すべては「無」に帰することになろう。が、「無」から「有」は生じない。したがって、他のすべてのものに疑いの目を向けても、「わたし」だけは疑えなかった。

 「わたし」を疑えなかったことで、疑うものと疑わないものが生じてしまった。詰まり、疑うものと疑わないものが「わたし」の恣意的判断に委ねられるものとなってしまったということだ。

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