アダム・スミス「公平な観察者」について(28)道徳的判断の主体
what we call a mind, is nothing but a heap or collection of different perceptions, united together by certain relations, and suppos’d, tho’ falsely, to be endow’d with a perfect simplicity and identity. – David Hume, A Treatise of Human Nature, Book I. Part IV. Section II
(所謂(いわゆる)「心」とは、一定の関係によって結び付けられ、完全な単純性と同一性を賦与(ふよ)されていると誤解されている、様々な知覚の堆積にすぎない)デイヴィッド・ヒューム『人性論』:第1篇:第4節:第2章
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《「主体」というアイデンティティが存在しないからこそ、そこに道徳的主体というものが形成されざるをえない…個人が道徳にコミットするのは、道徳的どころか、そもそも「主体」が存在しないからである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 70f)
個人には「主体」がない。よって、個人は自ら道徳的判断を下すことは出来ない。したがって、道徳的判断を下すためには、社会に判断基準を求めるしかない。
《人々の意見あるいは人々が現に行っていること、この種の「世間」こそが判断の基準となる》(同、p. 74)
ということだ。これが判断するための「叩き台」となるのだが、言うまでもなく、これは絶対的なものではない。
《むろん、「世間」にあらかじめ確かな道徳的価値が埋め込まれているわけではない…「確かなもの」はない…「世間の判断」もまた確かなものではなく、それはすぐに変わってしまう》(同)
「世間」は気まぐれなものだから、「世間の判断」も状況次第で一変しかねない頼りないものでしかない。
《主体のアイデンティティなどというものは存在しない…道徳律そのものは人間の自然の内に存在するものではない。それに代わって存在するのは…「同感(シンパシー)」の能力だけであった。そして、この感情(センチメント)のレベルで他者の立場に身をおくという「同感」によって、人は社会的存在であるほかない》(同、p. 81)
自分にidentity(同一性)というものが無い以上、自分の行いが道徳的か否かは分からない。だから、他者とsympathy(共感)することで「世間の判断」を知ろうとするのだ。
《道徳は、この社会という場で、他者の目を気にする、いいかえれば他者の評価をえたいという心理によってうみだされる》(同)
〈他者の評価をえたい〉と言うとどこか打算的に聞こえるので、私なら「他者に迷惑を掛けたくない」とでも言うだろうか。が、そんな表現の違いはどうでもよい。問題は、人には他者の評価を気にする性向があり、それが「道徳」の源泉だということだ。
《とすると、道徳とは、むしろ、人間が自然のままで道徳的存在ではないからこそ成立するのである。セルフ・アイデンティティなどという確かなものがないからこそ成立するのだ》(同、pp. 81f)
人にはidentityがない。だから、自分が道徳的か否かを自分で判断することは出来ない。だから、判断基準としての「道徳」が必要となるのだ。
《だがまた他方で、この場合、「同感」が基礎をおく「社会」は「確かなもの」かというとそうではない。所詮、それは確かなものではないから「社会」の判断につくのが得である、とヒュームは最初の功利主義者らしくいう。「徳」もまた「得」から発生するというのである。だがスミスはこうしたヒュームを批判する。もっと確かな根拠を求めようとする》(同、p. 82)
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