アダム・スミス「公平な観察者」について(29)虚栄
《「同感論」から導き出されることで、スミスがこの書物の中で繰り返し強調していることのひとつは、人間はあくまで他人の是認をえ、他人に評価されることを切望しているということである。それどころか、これはほとんど人間の行為の唯一といってもよいほど決定的な契機なのである。
つまり「…に値する」と思われることこそが決定的な関心事なのだ。「値打ち」があると思われる行為には報酬が与えられ、「欠陥」があると思われる行為には処罰が与えられる。この報酬の最大のものは社会的な称賛であり尊敬である。だから「われわれがともに暮らしている人々の明快な是認と尊敬をえたいという欲望は、われわれの幸福にとって決定的なものなのである」》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 83)
私のように、他者から評価されようがされまいが、やるべきことをやるという特殊な考えの人間は別にして、ほとんどすべての人達が、幸せを求め、他者から評価されることを望んでいるに違いない。
《他人の是認をえること、評判をえること、称賛をえること、これらは人間の行動を特徴づけるもっとも重要なものだ。しかし、注意しなければならないが、またそこから「虚栄(バニティ)」も生じるのである》(同、pp. 83f)
三木清は言う。
《虛榮は人間的自然における最も普遍的な且(か)つ最も固有な性質である。虛榮は人間の存在そのものである。人間は虛榮によって生きている。虛榮はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第1巻、p. 232)
《人は、つい、ただ「是認」をえるだけでは満足できず、「虚栄」を追い求めるようになる。そしてこの一歩は決してまれなものではないどころか、いつでも誰にでも起こりうる。なぜなら、「是認」は、確かに、ある行為の実質に対して与えられるものだが、「虚栄」は、そのような行為の「外見」あるいは「ふり」に対しても与えられるだろう、という考えに基づいているからだ》(佐伯、同、p. 84)
《ヴァニティはいわばその實體(じったい)に從って考えると虛無である。ひとびとが虛榮といっているものはいわばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虛無から生れ、その現象において虛榮的である。人生の實在性を證明しようとする者は虛無の實在性を證明しなければならぬ。あらゆる人間的創造はかようにして虛無の實在性を證明するためのものである》(三木、同、p. 234)
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