アダム・スミス「公平な観察者」について(30)虚栄は許されるべき
《われわれは、たとえば人に親切にして、他人から「尊敬」(つまり高度な「是認」)を受けることはできる。だが、そのうち、親切そうな「ふり」をして「尊敬」されたいと考えるようになる。このとき、われわれは「虚栄」を求めているのである。やっかいなのは、この「虚栄」もまた、もとはといえば同感の作用に基づいているということだ。
いいかえれば、評価が社会的なものだけにより、この社会的なものが評判という形を取る限り、「道徳的行為」も「道徳的に見える行為」もさしたる区別はなくなってしまうのだ。「道徳家」であることと「道徳家のふり」をしていることはさしあたり区別がつかない。両者とも社会の「是認」によって与えられるものだからである。ここに「虚栄」が発生する》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 84)
《人間が虛榮的であるということはすでに人間のより高い性質を示している。虛榮心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは假裝(かそう)に過ぎないかも知れない。けれども一生假裝し通した者において、その人の本性と假性とを區別(くべつ)することは不可能に近いであろう。道德もまたフィクションではないか。(省略)
人間が虛榮的であるということは人間が社會的であることを示している。つまり社會もフィクションの上に成立している。從って社會においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虛榮であるというのではない。フィクションによって生活する人間が虛榮的であり得るのである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第1巻、p. 236)
《だから、ここでわれわれは、「虚栄」というものを、ただそれにまつわりついている不愉快な語感のゆえをもってしりぞけるというわけにはいかなくなる。「虚栄」は善かれ悪しかれ、人間の社会生活の基本的な事実だとまずは認めてかからなければならない。
スミスは「人間的自然(ヒューマン・ネイチャー)」から出発した。これは一方でストア的な人間観に対して、もっと人間の自然の本性そのものを基礎にしようとしたということである。ここにはいくぶん、カルヴァン派的な原罪観を裏返した「高貴な未開人」の影響があったのかもしれない。
しかし、ひとたび「人間的自然」をそのまま認めてしまえば、かわいそうな境遇にあるものへの共感や痛みを共有しようという人間的善と同時に、「虚栄」や「野心」なども認めなければならないのである。人間の中にある善だけを認めてその悪に蓋をするなどということはできない。人間性とはその両方を含んでいるのである》(佐伯、同、pp. 84f)
《人に氣に入らんがために、或(ある)いは他の者に對(たい)して自分を快きものにせんがために虛榮的であることは、ジューベールのいった如(ごと)く、すでに「半分の德」である。すべての虛榮はこの半分の德のために許されている。虛榮を排することはそれ自身ひとつの虛榮であり得るのみでなく、心のやさしさの敵である傲慢に墮(だ)していることがしばしばである》(三木、同、p. 238)
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