アダム・スミス「公平な観察者」について(31)是認を目的とすることに伴う虚栄

《ひとたび人間的自然をまるごと認めたとした場合、その「悪」とりわけ「虚栄」や「野心」や「貪欲」をどのように抑えるか、もしくはもう少しましな形に変形できるか否か…人間的自然といったときには、こうしたさまざまな「悪」も自然のうちに人間は抱いているわけである。だからこの「悪」もまるごと含めて人間的自然をそのまま認めてしまうことが、ある意味ではもっとも人間的な「自由」だともいえよう。その意味でいえば、スミスの課題とは、「自由」な人間を前提にして、なおかつ社会の秩序をどう作るかが問題だったということもできる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 85)

《いかにして虛榮をなくすることができるか。虛無に歸(き)することによって。それとも虛無の實在性を證明(しょうめい)することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虛榮を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの實在性を證明することである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第1巻、p. 237

《他人の是認をえることと、虚栄に捕らわれることは紙一重である。他人の是認をえることはスミスもいうとおり、人間の社会生活の基本だ。だがしかし、その是認をえることのみが強迫的な自己目的となったとき、それは虚栄に変わる。その意味では是認と虚栄はきれいに分かれてしまうものではない》(佐伯、同、p. 86

 結果として是認が得られることと、是認を目的にすることは別物である。是認を目的にすれば、そこには何某かの虚栄が入り込まざるを得ない。他者から是認されれば嬉しいが、それを目的にしなければ、そこに虚栄が入り込む余地はない。

《是認/虚栄が作用するのは…すでに一定の価値観が共有されており、相互に全く見知らぬ間柄ではなく、しかし、直接に相手のパーソナリティまでよく知っているという「親密圏」よりは広い社会である。スミスはこうした社会における「共感」をもともと「同胞意識」と呼んでいた。いささか仲間内的な意識に支えられた同胞意識、しかし家族や知人の集団を越えた共同体、このようなレベルの共同体において、是認と虚栄はスミスが述べる意味で発揮されるであろう。

現代のわれわれに引き付けていえば、ビジネスマンにとっての職場、学者にとっての学会、主婦たちにとっての近隣地域、子供にとっての学校、といったものがさしあたりその共同体だ。これらの領域で、単なる是認はもっと自己目的化して虚栄となりやすいだろう。そして、こうした小社会の集まり、対面的共同体の集まりが、しかもある程度のまとまりと、文化的なものの共有の上に立った共同体、それが普通、国家と呼ばれる社会集団なのである》(同、pp. 87f

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