アダム・スミス「公平な観察者」について(2)人間は、他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるかを考える?

《スミスは、「人間は『他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるか』を考える」としていました。これが前提です》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 56)

 が、〈『他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるか』を考える〉とまで言うのは言い過ぎである。スミスが言っているのは、自分を他人の境遇に置いて、その人が感じていることを想像するということまでである。

私達の想像力が写し取るのは、他人の感覚ではなく、私達自身の感覚の印象でしかない。想像力によって、私達は自分自身を彼の境遇に置き、自分が同じ苦痛に耐えているのを思い浮かべ、あたかも他人の体の中に入り込み、他人と同じ人間になり、そこから他人の感覚をいくらか思い浮かべ、程度は弱くとも、まったく似ていないわけではない何かを感じさえするのである。こうして他人の苦悩が私達自身に齎(もたら)され、私達がそれを取り入れ、自分のものとしたとき、他人の苦悩はついに私達に影響を及ぼし始め、そのとき私達は、他人が感じていることを想像して震え上がる。どのような種類の苦痛や苦悩の中にいても、最も過大な悲しみが沸き起こるように、自分がその中にいると考えたり想像したりすることも、その考えが生き生きとしたものか、ぼんやりとしたものかに応じて、ある程度同じ感情を沸き起こらせるのである。

 これが他人の不幸に対する共感の源であり、苦しんでいる人と空想の中で立場を変えることによって、その人が感じていることを想像したり、心を動かされたりするようになるということは、それ自体では十分に明らかだとは思われないにしても、多くの明白な観察によって実証され得ることである。(スミス『道徳感情論』:拙ブログ(2)想像力(imagination参照)

《わたしたちが他人の行動を評価しているということは、周りの人びとも、わたしたちの行動を評価しているということになります。

 つまり、自分の行動は、常に社会全体から評価されているのです》(同、p. 58

 私達が他人の行動を評価するからといって、周りの人々が私達の行動を評価するとは限らない。そこには興味関心がなければならない。興味がない人を評価するなどということはない。

 また、たとえどれほど著名な人であっても、その人物の行動が社会「全体」から評価されるなどということも有り得ない。他人の行動の評価は、基本的にその行動を目に出来る間近な人に限られる。直接目にせずとも、何某かの情報があれば、その情報を元に評価できるだろうが、その対象は著名な人物に限られよう。いずれにせよ、他者の評価は限定的である。

 周りの評価は、一方的なものである。したがって、眼中にない人達の評価は気にならない。問題となるのは、こちらが気になる人物の評価だけである。

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