アダム・スミス「公平な観察者」について(3)論理と感情

《自分が他人から評価をされているわけです。この時は、「他人から悪い評価を受けたくない」と感じるでしょう》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 58)

「他人から悪い評価を受けたくない」というのも小市民的発想である。例えば、間違った情報が流布されて、自分の評価が良くなったとしても、それで喜べるだろうか。逆に、誤った情報で悪評が立つのも憤懣(ふんまん)遣る方(やるかた)無いだろう。評価が良くても悪くてもそれが正当なものであるのなら仕方ない。が、評価するなら偏見なく公正に評価して欲しいと多くの人が思うのではなかろうか。

《人は、自分のしたこと、感じたことに対して、世間にも同調してもらいたいと考えています。スミスによれば、この「世間に賛同してほしい」という願望は、何もわたしたちが特別にそう感じているわけではなく、人類共通で、しかも最重要の願いです。

 つまり、人間は他人からの「同感」を得たくて仕方がない生き物なのです。そして常に同感を得られるように、行動する生き物なのです》(同、pp. 58f

 昨今の言い回しで言えば、「承認欲求」ということであろう。多くの人には周りの人に認めてもらいたいという「承認欲求」があることは事実であろう。

友人が私の喜びに共感を示せば、確かにその喜びは活気づけられ、嬉しいだろうが、他人が私の悲しみに共感を示してくれても、悲しみが増しこそすれ、何も嬉しくはない。けれども、共感は、喜びを活気づけ、悲しみを和らげる。違う満足源を示すことで喜びを活気づけ、そのとき受け取ることの出来るほとんど唯一の快い感覚を心に染み込ませることで悲しみを和らげるのである。

 それゆえに、何としても友人に愉快な感情よりも不愉快な感情の方を伝えたがり、後者(楽しい感情)への共感よりも、前者(不愉快な感情)への共感から得られる満足感の方が大きく、共感が得られなければびっくりするといったことが観られるであろう。(スミス『道徳感情論』:拙ブログ(9)・拙ブログ(10))

《つまり、わたしたちは、周囲の人、社会から認めてもらえる、賛同してもらえるような行動をとろうとしているわけです。変な表現になってしまいますが「他人の目を気にして生きている」わけです。

 これがスミスが唱えた「理論」のすべてに関わっている、まさに基本原則なのです》(同、p. 60

 どことなく違和感を覚えるのは、スミスが抽象的に論理展開しているのに対し、木暮氏がこれを現実に引き込み、論理ではなく感情に訴えるような記述となってしまっているからではなかろうか。

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