アダム・スミス「公平な観察者」について(7)世間の声は正しい?
《自分独りで生活している時に、自分の顔の善し悪しを判断できないのと同じように、自分の行動が道徳的に正しいか、間違っているかは分からないのです。「他人からの評価」を聞いて初めて、自分の行いの善悪を判断できるのです。つまり、自分の行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だということです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 66)
行動の正邪は相対的な評価なので、自分独りで生活しているときは、判断できないというよりも、そもそも判断する必要がない。判断が必要となるのは、社会的評価が気になるときである。ここで、〈行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だ〉と木暮氏は言うのであるが、果たしてそうか。
《他人(世間)は気まぐれな評価をすることがあります。しかし、全体的に・長い目で考えると、そういう人は一部分で、大多数の人は「正しい評価」をしてくれます。
つまり「世間の声」は、「通常は正しい」のです》(同)
というのは世間知らずの阿呆というものであろう。木暮氏が何をもって「正しい」と考えているのか分からないが、世間が正しいなどという話は断じて受け入れられない。
《孤立していたときには、恐らく教義のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。原始人のような、自然さと激しさと凶暴さを具(そな)え、また熱狂的な行動や英雄的な行動に出る。言葉や心象によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に煽動されやすい点からも、さらにいっそう原始人に近いのである。群衆中の個人とは、あたかも風のまにまに吹きまくられる砂粒のなかの一粒のようなものだ》(ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 35f)
世間の判断は、正しいか否かで見るべきものではない。世間の判断を黙って受け入れるのか、それに反発するのか、それとも無視を決め込むのか対応が分かれるだけである。世間が正しいなどということを前提にすれば、如何に理不尽なことが突き付けられようとも、世間に反発するのはただの反逆者だということになってしまう。それでは自らの精神の平衡を保てない。
《ただ、「通常は正しい」というより、「正しいのは世間」と考えた方がいいかもしれません》(木暮、同、p. 68)
世間に反発しても勝ち目はない。だったら世間の判断は絶対的に正しいと考え、それに従うのが一番だということなのか。それでは、ただの「尻尾を丸めた負け犬」ではないか。
《ある国では間違っていることでも、別の国では称賛されることもあります》(同)
「正しい」の基準は、国によって異なると言いたいのであろう。が、それは「文化」や「風習」の違いということであって、それを正しいだの間違っているだの評価すること自体が間違っている。
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