アダム・スミス「公平な観察者」について(8)「正しい」ということ
《昔は「善」とされていたものでも、いまでは「間違っている」こともあります。奴隷制度や人身売買が普通に行われていた中世を考えれば、善悪の基準が移り変わってきたことが分かるでしょう。現在「正しい」とされていることは、なぜ「正しい」のか? それは「世間が正しいと考えているから」にほかならないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 68)
成程、スミスは次のように言っている。
The different situations of different ages
and countries are apt … to give different characters to the generality of those
who live in them, and their sentiments concerning the particular degree of each
quality, that is either blamable or praise-worthy, vary, according to that
degree which is usual in their own country, and in their own times. - Adam Smith, The Theory of moral sentiments: Part V Of the Influence of
Custom and Fashion upon the Sentiments of Moral Approbation and Disapprobation
Consisting of One Section: Chap. II Of the Influence of Custom and Fashion upon
Moral Sentiments
《時代や国が異なれば状況も異なり、そこで暮らす大部分の人々の性格も異なってくるのであって、非難すべきか、称賛に値するか、性質毎の詳細な程度に関する感情は、自分が暮らすの国や時代で通常である程度に応じて変わってくる》―アダム・スミス『道徳感情論』第5部
道徳的称賛と非難の感情に及ぼす習慣と流行の影響について:第2章 道徳感情に及ぼす習慣と流行の影響について
が、これは物事の正邪を言っているのではない。「郷に入っては郷に従え」と言っているだけで、「正しい」かどうかについて述べているわけではない。
《つまり、絶対的な「善」や「悪」はなく、その時代・その社会がそれぞれ価値観、判断基準を持っているわけです。そして、その意見を自分の中に取り入れて、「自分の中の裁判官」が判断基準を作っていくのです》(木暮、同、p. 69)
このような言い方では、ナチスドイツがユダヤ人を虐殺したことは、その時代、その社会において「正しかった」ということになってしまいかねない。別言すれば、「妥当」(proper)かどうかと「正しい」(just)かどうかは分けて考えなければならないということだ。
《このようにして人は、世間の意見から、何が正しくて、何が間違っているかという法律集を作っていきます。これが自分の行動の善悪を常に判断する基準になります。この法律をスミスは「一般原則」と呼びました》(同、pp. 69f)
Our continual observations upon the conduct of others, insensibly lead us to form to ourselves certain general rules concerning what is fit and proper either to be done or to be avoided.. -Ibid.: Part III Of the Foundation of our Judgments concerning our own Sentiments and Conduct, and of the Sense of Duty Consisting of One Section: Cap. IV Of the Nature of Self-deceit, and of the Origin and Use of general Rules
《他人の行為を観察し続けるうちに、私達は知らず識らずのうちに、なすべきこと、避けるべきことに関して、ある種の原則を自分に形成するようになる》―アダム・スミス『道徳感情論』第3部 自分の感情と行為に関する判断の基礎と、1つのセクションからなる義務感について 第4章 自己欺瞞の性質と原則の起源と利用について
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