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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(109)【最終回】

The human mind can only disengage itself from the magic circle of play by turning towards the ultimate. Logical thinking does not go far enough. Surveying all the treasures of the mind and all the splendours of its achievements we shall still find, at the bottom of every serious judgement, something problematical left. In our heart of hearts we know that none of our pronouncements is absolutely conclusive. At that point, where our judgement begins to waver, the feeling that the world is serious after all wavers with it. Instead of the old saw: "All is vanity", the more positive conclusion forces itself upon us that "all is play". -- J. HUIZINGA, Homo Ludens (人の心は、究極に向かうことによってはじめて、遊びの魔法陣から解放されるのです。論理的な思考では十分に離れられません。心の宝物と成果の輝きすべてを調査すれば、あらゆる重大な判断の底に、何か解決し難いものが残っていることに気付くでしょう。心の奥底では、私達の判断どれ1つとして絶対的な結論には至らないことを知っています。判断がぐら付き始めたその時点で、世界は所詮真面目だという気持ちも共にぐら付きます。「すべては虚栄である」という古諺(こげん)の代わりに、「すべては遊びである」というより肯定的な結論が突き付けられるのです)―ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、 cf. 高橋訳、 pp. 351f Whenever we a...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(108)真の遊び

Does this mean that war is still a game, even for the aggressed, the persecuted, those who fight for their rights and their liberty? Here our gnawing doubt whether war is really play or earnest finds unequivocal answer. It is the moral content of an action that makes it serious. When the combat has an ethical value it ceases to be play. The way out of this vexing dilemma is only closed to those who deny the objective value and validity of ethical standards. –- J. HUIZINGA, Homo Ludens (だとすれば、侵略された者、迫害された者、自らの権利と自由を求めて戦う者たちにとっても、戦争は依然として遊戯であるということなのでしょうか。ここに、戦争は実際遊びなのか真面目なのかという頭から離れない疑問に、明確な回答があります。ある行為を真面目なものにするのは、その道徳的内容だということです。戦闘が倫理的価値を持てば、遊びではなくなります。この厄介な難問から抜け出す方法が閉ざされているのは、倫理的基準の客観的価値と有効性を否定する人達だけです)―ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、 cf. 高橋訳、 p. 349  戦争は、「遊戯」( game )なのかということに加えて、「遊戯」であってはならないのかという問題もある。戦争は、「遊び」( play )なのか、それとも「真面目」( earnest )なのかという問題は、言葉の違いによる概念の違いも絡(から)み、独り日本語の世界で考えることには限界があるだろう。戦争を、非日常的「遊び」の中で考えるのか、日常的「真面目」の中で考えるのかもまた難しい問題である。戦争という衝突を避けるためには、外交において「遊び」の部分が必要である。また、いざ戦争となってし...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(107)国際法だけでは秩序は保てない

Any law-abiding community or communiy of States will have characteristics linking it in one way or another to a play-community. International law between States is maintained by the mutual recognition of certain principles which, in effect, operate like play-rules despite the fact that they may be founded in metaphysics. Were it otherwise there would be no need to lay down the pacta sunt servanda principle, which explicitly recognizes that the integrity of the system rests on a general willingness to keep to the rules. The moment that one or the other party withdraws from this tacit agreement the whole system of international law must, if only temporarily, collapse unless the remaining parties are strong enough to outlaw the "spoilsport". –- J. HUIZINGA, Homo Ludens (如何なる法治社会や国家共同体にも、何らかの形で遊び社会と結び付く特性があるでしょう。国家間の国際法は、形而上学に基づくものであるかもしれないにもかかわらず、事実上、遊びの規則のように機能している一定の原則の相互承認によって維持されています。さもなければ、体制の整合性が、規則を守る一般的な意欲に基礎を置いていることを明確に認める、「合意は拘束する」の原則を定める必要はないでしょう。一方の締約国がこの暗黙の合意から離脱...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(106)「ポピュリズム」と「ポピュラリズム」

<最も大きな民衆の声>を権力の源泉とする政治文化には危険な影が付き纏(まと)う。それが「ポピュリズム」である。  佐伯啓思氏は言う。 《古代ギリシャやローマの政治家がしばしばそうであったように、大衆政治家は、多かれ少なかれポピュリズムへとなびくが、それは民主主義の歪(ひず)みというよりも、むしろ民主主義の本質といわねばならない。少なくとも、民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは、民意を獲得するための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかなかろう。民意を敵に回してでも真に重要な決断をすることを政治家に求めるならば、「民主主義は民意の実現」などというわけにはいかないのである》(「壊れゆく民主主義 『民意』こそが危機を生み出す」:『佐伯啓思の異論のススメ スペシャル』朝日新聞 2022 年 12 月 27 日)  populismは、例えばCambridge Dictionaryでは、次のように定義されている。 political ideas and activities that are intended to get the support of ordinary people by giving them what they want (大衆が欲しいものを与えることによって、大衆の支持を得ようとする政治思想や活動)  が、西部邁氏は、これは「ポピュリズム」と言うのは誤りで、「ポピュラリズム」と呼ぶべきだと言う。 《僕がここであえてポピュラリズムという言葉を使っているのは、ポピュリズム(人民主義)にはかなりに正当な意味合いがあったからである。つまり困窮せる人民の状態をどうしてくれる、というのがポピュリズムの本来の姿なのであった。今の人気主義はそれとは異なって、マスメディアにおいて浮動するムード(雰囲気)が政治を差配することをもって(間違って)ポピュリズムと呼んでいる。  人気のことを英語でポピュラリティということにもとづいて、僕はこの民主主義の断末魔めいた不安定な政治を指してポピュラリズムと呼び変えたいのである。これは帝政期ローマにおける「ヴォクス・ポプリ、ヴォクス・デイ」(民の声は神の声)というドンチャン騒ぎの再現とみえてならない》(西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)、 p. 33 ) ☆ ☆ ☆ Though ...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(105)最も大きな民衆の声による指名

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There can be no doubt that it is just this play-element that keeps parliamentary life healthy, at least in Great Britain, despite the abuse that has lately been heaped upon it. The elasticity of human relationships underlying the political machinery permits it to "play", thus easing tensions which would otherwise be unendurable or dangerous -- for it is the decay of humour that kills. We need hardly add that this play-factor is present in the whole apparatus of elections. -- J. HUIZINGA, Homo Ludens (少なくとも英国では、最近山ほど浴びせられた雑言にもかかわらず、議会生活が健全に保たれているのは、このような遊びの要素のお陰であることに疑いの余地はありません。政治機構の根底にある人間関係の弾力性は、そこに「遊び」を許すことで、さもなければ耐えられない、あるいは、危険であろう緊張を和らげるのです。というのは、命を奪うのはユーモアが衰えたときだからです。この遊びの要素が、選挙という装置全体に存在することは、最早付け加えるまでもありません)―ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、 cf. 高橋訳、 p. 343  車を安全に運転するために、ハンドルに「遊び」があるように、政治にも命の取り合いにならないように「遊び」の部分が必要だということである。 In American politics it is even more evident. Long before the two-party system had reduced itself to two gigantic teams whose political differences were har...