アダム・スミス「公平な観察者」について(12)良心という名の判断基準

《大事な点は、道徳的な善悪基準は「世間次第」で、「世間が道徳を決める」ということです。自分の行動が正しいか、間違っているかは自分で判断できるということはないわけです。

 ここを勘違いしてしまうと「結局自分で判断すればいいので、自分がいいと思うことは、何でもやっていい」となってしまいます》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 70

 このような言い方をすれば、道徳を決めるのは世間であって自分ではないかのように聞こえるが、そうではない。世間には自分も含まれる。が、注意すべきは道徳を決める世間とは、自分の周りといった「狭い社会」ではなく、空間的そして時間的に広がりのある「広い社会」を指すと考えなければならない。

《スミスが考えたことは、自分が属する社会から「自分の中の裁判官」を形作るということ。あくまでも判断基準は「自分」ではなく「社会」なのです》(同)

 これももう少し丁寧に言わなければ誤解を招くだろう。

如何に強い自己愛の衝動であっても、それをこのように妨げることが出来るのは、思いやりという柔らかな力でも、造物主が人間の心に灯(とも)した弱々しい博愛の火花でもない。このような場面で力を発揮するのは、もっと強い力であり、もっと力強い動機である。それは理性であり、原理であり、良心であり、胸中の住人であり、内部の人間であり、自分の行動の偉大な裁判官であり、調停者である。他人の幸福に影響を及ぼすような行動をとろうとするときにはいつでも、自分の感情の中で最も厚かましい感情を驚かせることのできる声で、自分は大勢の中の1人に過ぎず、その中で他の誰よりも優れている点など何1つないのだ、そして、とても恥ずかしくも、そしてとても闇雲(やみくも)に他者よりも自分を優先すれば、自分が怨恨、嫌悪、非難の対象になるということを自分に呼びかけるのが、この人なのである。(アダム・スミス『道徳感情論』:拙ブログ(56)偉大な裁判官と調停者

 自分の中の法廷における判断基準は、「自分」でもなく「社会」でもなく、自らの「良心」(conscience)ということだ。

《アダム・スミスが一番主張したかったのは、善悪の判断は自分で決めることはできないということです。何が正しくて、何が間違っているかを決めるのは自分ではなく、社会に意見を仰がなければいけない、と言っているのです》(木暮、同、p. 71

 成程、善悪の判断を自分勝手に決めることは許されず、社会の意見を仰がなければならないのはその通りであろう。が、社会の判断を日々仰ぎつつ、様々な経験を積み重ねることで、判断基準の「原則」(general rule)が身に付き、一定の善悪を自分で判断できるようになるというのがスミスの言い分なのだと思われる。

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