アダム・スミス「公平な観察者」について(6)「良心」という名の「裁判官」
《人間は自分の中に作った「裁判官」の判断に従って、自分の行動の善悪を判断するようになります。ただし、「社会からどう思われるか」を知るために、且分の中に評価を下す人を作るわけですから、その「裁判官」の判断基準は、社会と同じでなければいけません。「裁判官」自体は、自分の中に作りますが、裁判官が持っている「法律(判断基準)」は世間の声をもとに創らないといけないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、pp. 63f)
が、この「裁判官」は、自分の中に人工的に作るようなものではなく、自生的に成長する自然な存在であろう。
人間はこのようにして、人類の直接的な審判者とされたとはいえ、そうされたのは第一審でしかなく、その判決から、ずっと高次の法廷に、すなわち自分自身の良心の法廷に、公平で十分な情報を持つと思われる観察者の法廷に、そして自分たちの行為の偉大な裁判官であり裁定者である胸中の人類の法廷に、上訴できるのである。この2つの法廷の管轄権は、ある点では類似し、同種のものであるけれども、現実には異なった別個の原理に基づいている。
外部の人間の裁判権は、現実の称賛を望み、現実の非難を嫌うことにまったく基づいている。内部の人間の裁判権は、称賛に値することを望み、非難に値することを嫌うことに、他人を愛し称賛するような資質を有(も)ち、そのような行動をしたいという望み、他人の中で私達が憎み、軽蔑するような資質を有ち、そのような行動をすることを怖れることにまったく基づいている。
(アダム・スミス『道徳感情論』:拙ブログ(48)2つの裁判権)
《そのため人は、自分が生きている社会が一般的に何を「善」として、何を批難するかを考えます。というより、生活のなかで「世間の判断基準」を見つけ、集めていきます。つまり、自分が社会と関わっていく中で、「この社会での一般的な判断基準」を見つけて、それを「法律」として「自分の中の裁判官」が吸収していくわけです。それが「道徳規準」になるのです》(同、p. 64)
が、〈高次の法廷〉とはそのようなものではないだろう。人は、世間が下した〈第一審〉判決に不服な場合、心の中にある〈高次の法廷〉に上訴する。自らの「良心」(conscience)の判断基準は、必ずしも世間と同じではない。だから、世間の判断に納得がいかない場合、「良心」に問うのだ。
〈道徳〉とは、社会の秩序を乱さぬよう、社会生活を円滑に営むための決まりである。が、自らの価値観とこの道徳が一致しないことがある。そのとき、人は自らの「良心」に問う。そして、〈高次の法廷〉での判決を仰ぐのだ。
《社会の「本質的」な判断基準を取り込んだ「裁判官」は「仮想・社会の目」と考えられます。その「裁判官」に従っていれば社会から同感が得られる、というわけです》(同)
が、人は、社会から〈同感〉を得ようなどと媚(こ)びへつらって生きているわけではない。人には、自負心があり矜持がある。だから、世間がどう評価しようと、己の道を貫くということも有り得るのだ。だから、世間に反しようとも、自らの信念を貫くべきか否かの裁定を「良心」という名の「裁判官」に委(ゆだ)ねるのだ。
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