ハイエク『隷属への道』(45) 合理主義を語る傲慢
自分たちには理解できない諸力や、誰か知的な人の意図的な決定に基づいていると認められない諸力に対して、身を任せるのを拒否するという態度は、不完全で、したがって誤った合理主義の産物である。なぜ不完全かといえば、複雑な社会で様々な個人的な努力を相互に調整させていくためには、どんな個人であっても完全には調べ上げることのできない多くの事実の存在を考慮に入れなくてはならないのに、その点をこの合理主義は理解できずにいるからである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 280) <誤った合理主義の産物>と言うよりも、合理主義を語る傲慢とでも呼ぶべきものであろう。自分が歴史の高みに立っているかのごとくに思い込み、慣習や道徳といった過去からの流れに逆らうのである。 われわれの複雑な社会が崩壊してしまわないようにするためには、2つの道しかなく、1つは、市場における個人を超えた非人格的な、非合理にさえ思われる諸力に身を任せる道で、もう1つの道は、これと等しく人々にとっては制御不可能で、したがって悪意的なものにすぎない権力を、他の人々が振るうことに対して身を任せる道でしかない、ということである。現代の人々は、うんざりするほどの様々な制約からなんとかして逃れたいと熱望しているために、これに代えてもう1つの道を選んだ場合、計画的に自分たちに課される新しい権威主義的な諸制約が、実はもっと苦痛の多いものにさえなるであろうことに、気づくことができないでいる。(同) 現在の軛(くびき)が無くなれば自由になれると考えるのは大間違いである。自由主義社会であれ、社会主義社会であれ、どのような社会であっても「拘束」は無くならない。全体主義社会なら全体主義社会なりの不自由さがあるということである。それどころか、かつてのソ連邦や今のシナを見ても分かるように、自由主義社会以上の抑圧が待ち受けているだろうことは想像に難くないのである。 自然の諸力に対する支配の方法については、人類は驚くべき高い程度にまで学び取ったというのに、社会的な相互の共同の可能性を活用するという面では、悲しいことに立ち後れていると主張している人々は、この主張それ自体に関する限りではまったく正しい。だが、この2つの事柄の問における対比をさらにいっそう進めて、人類が自然の諸力を支配することを学び取ったのと同じやり方で...