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アダム・スミス「公平な観察者」について【最終回】(46)まとめ

《自分を解釈することによる自己の改変に際しては、アダム・スミスのいったimpartial spectator「偏りのない(公平な)観察者」を自分の精神のうちに受け入れなければならない…スミスは、その「公平な観察者」は「sympathy」(同情)を持っていると考えました。つまり、「人々が情感を同じくする」という人間精神の共通の地盤の上に各自が自立するときにはじめて、歴史の連続性と社会の統一性が保たれるということでしょう》(西部邁『教育 不可能なれども』(ダイヤモンド社)、p. 27)  他者に「同情」、「共感」することで、自分の行いがどのように見られているのかを知り、世間に合わせ道徳的に振舞おうとするのだが、「同情」したり「共感」したりするためには、共通の基盤が必要だ。何故なら、「観察」( observation )は、「理論」( theory )に依存するからである。詰まり、前提となる理論が異なれば、見えてくるものも違ってくるということだ。これを、「観察の理論負荷性」( Theory-ladenness of observation )と言う。 The theory-ladenness of observation is a concept in philosophy of science that refers to the idea that observations are affected by the theoretical assumptions of the observer. This means that observations are already influenced by preconceived ideas and expectations, which can come from a variety of sources, including cultural perspectives and educational training. (観察の理論負荷性とは、観察は観察者の理論的前提に影響されるという考え方を指す科学哲学の概念である。詰まり、観察は、文化的観点や教育的訓練をはじめとした様々な情報源から生じ得る先入見や期待に既に影響されているということである) 《ただし、彼のいう「同情」を―― compassion (...

アダム・スミス「公平な観察者」について(45)「確かな自己」を求めて

Our sensibility to personal danger and distress, like that to personal provocation, is much more apt to offend by its excess than by its defect. No character is more contemptible than that of a coward; no character is more admired than that of the man who faces death with intrepidity, and maintains his tranquillity and presence of mind amidst the most dreadful dangers.  We esteem the man who supports pain and even torture with manhood and firmness; and we can have little regard for him who sinks under them, and abandons himself to useless outcries and womanish lamentations. A fretful temper, which feels, with too much sensibility, every little cross accident, renders a man miserable in himself and offensive to other people. A calm one, which does not allow its tranquillity to be disturbed, either by the small injuries, or by the little disasters incident to the usual course of human affairs; but which, amidst the natural and moral evils infesting the world, lays its account and is ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(44)平静さを失わないこと

The man who, in danger, in torture, upon the approach of death, preserves his tranquillity unaltered, and suffers no word, no gesture to escape him which does not perfectly accord with the feelings of the most indifferent spectator, necessarily commands a very high degree of admiration. If he suffers in the cause of liberty and justice, for the sake of humanity and the love of his country, the most tender compassion for his sufferings, the strongest indignation against the injustice of his persecutors, the warmest sympathetic gratitude for his beneficent intentions, the highest sense of his merit, all join and mix themselves with the admiration of his magnanimity, and often inflame that sentiment into the most enthusiastic and rapturous veneration. The heroes of ancient and modern history, who are remembered with the most peculiar favour and affection, are, many of them, those who, in the cause of truth, liberty, and justice, have perished upon the scaffold, and who behaved there with ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(43)「自制」と「中立」

《むろん、自己規制(セルフ・コマンド)といっても、自然に発揮されるものでもなければ、また神を信じれば直ちに手に入るというものでもあるまい。むしろ、スミスは、「通常の人」が、いかにしてこの自己規制をもちうるのか、またそれはどのような場合に高度に発揮されるのかを論じてみようとしているのである。人はそれを社会生活の中で学ぶのである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 105) If we examine the different shades and gradations of weakness and self-command, as we meet with them in common life, we shall very easily satisfy ourselves that this control of our passive feelings must be acquired, not from the abstruse syllogisms of a quibbling dialectic, but from that great discipline which Nature has established for the acquisition of this and of every other virtue; a regard to the sentiments of the real or supposed spectator of our conduct. – Adam Smith,  The Theory of moral sentiments : 3.1.2. Chap. II (様々な色調色彩の欠点と自制を、日常生活で目にするままに調べてみれば、この受動的な感情の制御は、こじつけ弁証法の難解な3段論法からではなく、造物主があれこれの美徳を身に付けるために定めた偉大な規律、すなわち、自分の行為を現実に見る人、あるいは見ると思われる人の感情を尊重することによって身に付けなければならないということを納得するのは造作ないことであろう) ― アダム・スミス『道徳感情論』第3部:第3章  また、スミスは『道徳感情論』第 6 版に以下のような内容を付け加えている。 The man of re...

アダム・スミス「公平な観察者」について(42)非利己的行為の評価

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《この自己規制を行った人はもはや上流階級の人である必要もない。そもそも上流階級に道徳のモデルを求めることは、それ自体が、「称賛を欲する」という虚栄と結び付いているのではないか。世間の評価などというものも、この上流であることに対する感嘆と結び付いているのがこの世の習わしというものだろう。なぜなら「人類のうちの大群衆は、富と上流の地位の感嘆者であり崇拝者」だからであり「たいていの人にとっては、富裕な人と上流の人の高慢と虚栄が、貧乏な人の確固とした値打ちよりもはるかに感嘆されるものなのである」からだ》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 104)  ニーチェは、上流階級に合わせた道徳を次のように批判する。 《彼ら〔道徳史家〕の道徳系譜学のお粗末さ加減は〈よい〉という概念および判断の由来を調べることが問題となるそのときに、初っぱなからたちどころに暴露する。「もともと非利己的行為は」――と彼らは宣告する――「その行為を実地にしてもらい、かくてそれら利益をうけた人々の側から賞讃されて、 〈よい〉 と呼ばれた。後になって、この賞讃の起源が忘れられ、かくして非利己的行為は、それが習慣的につねに 〈よい〉 と賞讃されたというだけの理由で、そのまままた 〈よい〉 と感じられるようになった、――まるでその行為それ自体が何か〈よいもの〉であるかのように。」 ただちに見てとられるとおり、この最初の推論からしてすでに、イギリス心理学者の特異体質の典型的特徴をすべて含んでいる。――〈功利〉、 〈 忘却 〉 、 〈 習慣 〉 、そして最後に〈錯覚 〉 、これらすべてのものが評価の基礎とされており、これまで高級の人間はこの基礎に立つことをもって人間たるものの一種の特権ででもあるかのように誇ってきた。この誇りが挫かれ、この価値評価が無価値にされねばならぬ》(ニーチェ「道徳の系譜」:『ニーチェ全集 11 善悪の彼岸 道徳の系譜』(ちくま学芸文庫)信太正三訳、 p. 377 ) 《この上流階級では、成功と昇進は無知高慢な上長者たちの気まぐれしだいなのである。ここでは「社交界の人と呼ばれる、あのさしでがましくばかげたしろものの、外面的な品位、とるにたらぬ身だしなみ」こそが感嘆を受けるのだ。そして大衆は、富裕な人々と上流の人々を感嘆し模倣しようとする。だからどちらも同じ穴のムジナ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(41)「自制」とは経験を通して学び身に付けるもの

《そうだとすれば、もはや、「中立的な観察者」は「世間」でもなければ、財産をもった上流階級である必要もない。「神の見えざる目」によって、人は自己を規律できるはずである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 104)  本来、「観察者」とは「世間の目」ということであるから、「中立的な観察者」とは、「偏見のない世間の目」ということだ。だから、「世間」がなければ「中立的な観察者」も存在しない。  また、個人個人で区々(まちまち)の道徳判断が社会の中で調整される際に「神の見えざる手」が作用するということなのであって、「人は、神の見えざる目によって自己を規律できる」などと考えてしまっては、神に偏向した反中立的な信者でしかないだろう。  「自制」( self-command )とは、神に依存するのではなく、経験を通して自ら学び、身に付けるものである。 A very young child has no self-command; but, whatever are its emotions, whether fear, or grief, or anger, it endeavours always, by the violence of its outcries, to alarm, as much as it can, the attention of its nurse, or of its parents. While it remains under the custody of such partial protectors, its anger is the first and, perhaps, the only passion which it is taught to moderate. By noise and threatening they are, for their own ease, often obliged to frighten it into good temper; and the passion which incites it to attack, is restrained by that which teaches it to attend to its own safety. - Adam Sm...

アダム・スミス「公平な観察者」について(40)神の存在

When the general rules which determine the merit and demerit of actions, come thus to be regarded as the laws of an All-powerful Being, who watches over our conduct, and who, in a life to come, will reward the observance, and punish the breach of them; they necessarily acquire a new sacredness from this consideration. That our regard to the will of the Deity ought to be the supreme rule of our conduct, can be doubted of by nobody who believes his existence. The very thought of disobedience appears to involve in it the most shocking impropriety. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments , Book 3. Section 3 (こうして、行為の功罪を決める原則が、私達の行いを見張り、来世において、それを遵守すれば報い、違反すれば罰する全能の存在の法として見做されるようになると、必然的に、この考察から新たに神聖なものを獲得する。神の意志を尊重することが私達の行いの最高規範であるべきであるということは、神の存在を信じる者なら誰も疑いを容(い)れない。神に背くことを考えること自体が、最も恐ろしい不適切さを含んでいるように思われるのである)― アダム・スミス『道徳感情論』第3部:第3篇 How vain, how absurd would it be for man, either to oppose or to neglect the commands that were laid upon him by Infinite Wisdom, and Infinite Power....