アダム・スミス「公平な観察者」について(14)想像によって自分を相手の境遇に置く
《ある行為の適宜性を判定するのは、想像上において相手の立場に身をおくところからでてくる判断にほかならない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 61)
私達の想像力が写し取るのは、他人の感覚ではなく、私達自身の感覚の印象でしかない。想像力によって、私達は自分自身を彼の境遇に置き、自分が同じ苦痛に耐えているのを思い浮かべ、あたかも他人の体の中に入り込み、他人と同じ人間になり、そこから他人の感覚をいくらか思い浮かべ、程度は弱くとも、まったく似ていないわけではない何かを感じさえするのである。こうして他人の苦悩が私達自身に齎(もたら)され、私達がそれを取り入れ、自分のものとしたとき、他人の苦悩はついに私達に影響を及ぼし始め、そのとき私達は、他人が感じていることを想像して震え上がる。どのような種類の苦痛や苦悩の中にいても、最も過大な悲しみが沸き起こるように、自分がその中にいると考えたり想像したりすることも、その考えが生き生きとしたものか、ぼんやりとしたものかに応じて、ある程度同じ感情を沸き起こらせるのである。
これが他人の不幸に対する共感の源であり、苦しんでいる人と空想の中で立場を変えることによって、その人が感じていることを想像したり、心を動かされたりするようになるということは、それ自体では十分に明らかだとは思われないにしても、多くの明白な観察によって実証され得ることである。―アダム・スミス『道徳感情論』:拙ブログ(2)想像力(imagination)
相手の行為の適宜(propriety)を判断するためには、相手の立場になって考えることが必要だ。ここで問うているのは、相手が置かれた状況において、その行為が適切か否かということであって、例えば、道徳的に正しいか否かというようなことではない。
《「同感」とは想像の上で他者の境遇に身をおき、その上で他者の情念を自らのそれと引き比べてみる能力である》(同)
私達は、2つの異なる動機に基づいて、他人の感情が自分の感情と一致するかどうかによって、その感情が適切であるかどうかを判断できる。1つは、感情を沸き起こす動機が、自分にも、その感情を判断する相手にも、特別な関係がないと考えられる場合、もう1つは、その感情が私達のどちらかに特別な影響を及ぼすと考えられる場合である。―アダム・スミス『道徳感情論』:拙ブログ(17)他人の感情が自分の感情と一致するかどうかによって、その感情が適切であるかどうかを判断できる
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