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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(77)詩は遊戯の平面上を動く

In my view this desire to astonish by boundless exaggeration or confusion of proportions should never be taken absolutely seriously, no matter whether we find it in myths which are part of a system of belief or in pure literature or in the fantasies of children. In every case we are dealing with the same play-habit of the mind. Involuntarily we always judge archaic man's belief in the myths he creates by our own standards of science, philosophy or religious conviction. A half-joking element verging on make-believe is inseparable from true myth. Here we are up against that " thaumaturgic part of poetry" whereof Plato speaks.  (私の考えでは、無限の誇張や比率の混乱によって驚かせたいというこの欲求は、それが信仰の体系の一部である神話であれ、純文学であれ、子供の空想であれ、絶対に真に受けてはいけません。あらゆる場合において、私達は同じ心の遊びの習慣を扱っているのです。無意識に、私達は、自ら作り出した神話を古代人が信じていたかどうかを私達自身の科学や哲学や宗教的信念の基準で常に判断します。ほとんど空想に等しい冗談半分の要素が、真の神話には付き物です。ここで私達は、プラトン言うところの「魔術師のような能力を持つ詩の部分」に直面するのです)― cf. 高橋訳、 pp. 246f If poetry, in the widest sense of the Greek poiesis , must always fall w...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(76)詩的誇張

韻律の言葉は、社会の遊戯の中にのみ生まれるのである。そこにこそ詩は生きた機能を保ち、その意味とその価値を持っている。そして社会的遊戯がその祭祀的、祝祭的、儀式的性格を失ってゆく度合に応じて、それらのものも消滅してゆくのである。押韻、対句法、二行連句などの要素はみな、遊戯の中にある攻撃と反撃、上昇と下降、問と答、謎と解決といった時間を超越した類型の中に、その意味の根をおろしているのである。それらの起源は歌、音楽、舞踊の原理と不可分に結びつけられており、それらはまた、すべて遊戯という根源的機能の中に包含されている。だんだんと詩の意識的な特質として認識されるようになってきたもの、つまり美、神聖、魔力などは、初めはまだ原始的な遊戯という質の中に閉じ籠められていたのであった。  われわれは詩を不滅のギリシア的範型に従って大きく3類に分け、抒情詩、叙事詩、戯曲とするが、それらの中で、最も根源的な遊戯領域の中にとどまっているのが抒情的なものである。ただここでは、抒情詩を詩の種類としての名称と受け取ってはならない。それはいつどういう形で現われて来てもよい、ある詩的気分、表現一般をいうのであって、恍惚状態とでもいうべきもののすべてをその領域に含ませることができる。こうして、非常に広い意味において受け取られた抒情的なものは、詩的言語の形づくる階梯(かいてい)の中では、論理からは最も遠くへだたり、舞踊と音楽には最も近い位置にある。神秘的瞑想、神託、呪術の言葉は抒情的なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 p. 245 ) Emile Faguet speaks somewhere of "Ie grain de sottise necessaire au lyrique moderne". But it is not the modern lyrical poet alone who needs it; the whole genre must of necessity move outside the limitations of the intellect. One of the basic features of lyrical imagination is the tendency to maniacal exagger...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(75)遊びの姿勢

In whatever form, from the most sacred to the most literary, from the Vedic Purusha to the fetching little figurines in the Rape of the Lock, personification is both a play-function and a supremely important habit of mind. Even in modern civilization it has not, by any means, dwindled to a mere artifice of literature, something to be put up with and sometimes resorted to. We are very far from having outgrown it in everyday life. – J. Huizinga, Homo Ludens : VIII The Elements of Mythopoiesis (最も神聖なものから最も文学的なものまで、ヴェーダのプルシャから『髪盗人(かみぬすびと)』の魅力的な小さな像まで、どんな形であれ、擬人化は遊びの機能であると同時に極めて重要な心の習慣である。近代文明においても、擬人化は、決して単なる文学の技術、我慢し時に頼るようなものにまで衰えてはいません。私達は、日常生活の中で、それを使い果たしたとは決して言えない)― ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第 8 章 詩の創作の要素 ― cf. 高橋訳、 p. 242 何か生命のない物体に対してこういう経験をした人はいないだろうか。カラーの飾りボタンがどうしても外れようとしないのでむきになり、必死の形相で大声を出して、このつむじ曲り奴、とボタンに罪を被せて怒鳴りつけたり、その呪うべき頑固さを罵(ののし)ったりする。こんな羽目に幾度か陥(おちい)った人はいることだろう。そういうことがあったら、その人は言葉の最も厳密な意味において、擬人化を行なっていたのである。しかし、彼はこのカラーのボタンを1つの生きものだとして信じていたわけでもないし、また1つの観念として信じていたのでさえもない。ただ思わず知らず、遊戯態度...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(74)擬人法

Are we justified in calling this innate habit of mind, this tendency to create an imaginary world of living beings (or perhaps: a world of animate ideas), a playing of the mind, a mental game? – J. Huizinga, Homo Ludens : VIII THE ELEMENTS OF MYTHOPOIESIS (この生まれながらの心の習慣、生き物の空想の世界(おそらくは、生気に満ちた観念の世界)を創り上げるこの傾向を、心の遊び、心的遊戯と呼んでも差支えありませんか)― ― ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第8章 神話想像の要素 cf. 高橋英夫訳、 p. 236 Let us take one of the most elementary forms of personification, namely, mythical speculations concerning the origin of the world and things, in which creation is imagined as the work of certain gods using the limbs of a world-giant's body. -- Ibid . (擬人化の最も初歩的な形態の1つ、すなわち、天地創造が、世界巨人の体の手足を使った、ある神々の御業(みわざ)として思い描かれている、世界と物事の起源に関する神話的思索を例にとりましょう)― cf. 高橋英夫訳、 pp. 236f Normally we are inclined to regard the personification of abstract ideas as the late product of bookish invention -- as allegory, a stylistic device which the art and literature of all ages have made hackneyed. And indeed, as soon as ...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(73)神話における「擬神法」

文化が精神的な方向に展開してゆくのに応じて、変化がおこった。遊戯の特徴が辛うじて認められるだけの領域、あるいはそれが全然認められないような分野が現われ、遊戯が自由な軌道の上に繰りひろげられている分野を犠牲として、しだいに拡がってゆくのだ。 文化は、全体としてはますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れあいを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行きを共にするように見える。 しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華やかな、高貴な遊戯の砦(とりで)として残っているもの、それが詩なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、 pp. 232f )  社会の現実が苛酷になるにつれて、「本気」の度合いが増し、「遊び」が衰微した。が、その中にあって<詩>だけは、命脈を保っているのだ。  隠喩とはある状態、またはある出来事を描写するにあたって、生き生きと活動している生からひきだした概念を用いるということであり、その効果もその点にかかっている。とすれば、このときすでにわれわれは、擬人化への道の途上にあることになる。実体のないもの、生命のないものを人格として表わす、これがすべての神話が形成されてゆく場合の、そして殆んどすべての詩作が行なわれる場合の本質なのである。  ※隠喩:比喩法の一。「…のようだ」「…のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。(例)「歩きすぎて足が棒になった」「人生はマラソンである」  神話の世界の出来事は、物を人に喩えた「擬人法」では説得力に欠ける。物事を神々の御業に喩えた「擬神法」を用いてこそ、信じるに値するものになれるのだ。 厳密にいえば、そういう表現を形成してゆく過程は、今述べたような径路を順を追ってたどるものではない。最初実体がないと考えられたものが、生命があると考えられるものによって表現されて、そこで初めて生命を吹きこまれる、というのではない。根源的なことは、知覚された事物が生きて動いている生命体という観念に置き換えられる、ということなのである。それは、われわれのうちに、知覚したものを他人に伝えたいという欲求が動き出すやいなや、すぐさま生じる。...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(72)神話とは何か

 神話は正しい理解をうけ、現代のプロパガンダがそこに無理に押しつけようとしている頽廃(たいはい)的な意味でなく受け取られるなら、宇宙に対する原始人の考えをまことに適切に媒介するものである。考えることが可能なものと不可能なものとのあいだに境界線を引くということは、文化がようやく生成発展を始めるようになってから、人間精神がやってのけたことにすぎない。未開人たちが世界を論理的に秩序づける能力はごく限られた程度のものだったが、彼らにしてみれば、そもそもどんなことでも可能でないものはなかった。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 225)  ホイジンガは、文化人類学的に「神話」を捕えているのだろう。文化が未発達の人達、詰まり、「未開人」の混沌(こんとん)とした「世界観」を「神話」として捉えている。また、歴史学的に視れば、「事実」として過去を捉えた「歴史」に先行する、事実とは言い難い「神話」とはやや「神話」の位置付けが異なるに違いない。さらには、宗教学的見地から「神話」を信仰の対象として捉えることも可能である。 神話の示すあらゆる非条理と巨大さ。その無制約の誇張と、もろもろの事象の間の関係の混乱ぶり。その投げやりな矛盾と気紛れな変化。だが、それらにもかかわらず、神話はほかの何か途方もないもののように、彼を悩ませはしなかった。しかし、たとえそうであったとしても、われわれはこう自問してみなければなるまい、未開人にとってさえ、彼らの最も神聖なはずの神話に対する信仰には、最初からある種の諧謔(かいぎゃく)的な調子という要素が染みついてはいなかったか、と。詩と共通して、神話も遊戯領域に発生したのであり、従って未開人の信仰は、その全生活がそうであったように、少なくとも半ば以上は、やはりこの領域の中にあったのだ。(同)  「神話」の非現実性、非論理性といったものは、「遊び」の非日常性と重なる部分が多い。否、「神話」は、現実から遊離した「遊び」の中で生まれたというのはホイジンガの言う通りであろう。  古代文化の中では、詩人の言葉はまだ非常に強い活力を持った表現手段であった。そのころは、詩は単なる文学的熱情の満足という以上に幅広い、生気ある機能を充たしていた。祭祀を言葉に置き換え、社会の諸関係を調停し、知恵、法律、道徳の担い手となっていた。どんなことをし...

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(71)理性が届かぬ高みに飛翔する神話

《口承されていた神話の記述化は、すでに神話的思考の克服の一里塚である。  すなわち、現在の自分と直接つながるものとしての過去の出来事のできるだけ正確な再現ということではなくて、現在とどうかかわるかは定かではないが、かつて神々の世界としてそのような過去があると信じられていた、今の自分からみればすでに完全に異世界となった、遠い了解不可能な世界をはるか遠望するかのような意識において、ひとつの区切られた世界を知られているままに記述していく、そういう無私の叙述にみえてくる。恐らく叙述者は現代のわれわれと同じように神々の物語の非合理に気がついていたであろう。しかし合理的に説明しようなどという気はさらさらない。論証など思いも寄らない。いずれにせよ神々の世界はそのようなものとしてあったのだから、そのようなものとしてこれを了解するよりほかに仕方がない、という説明の放棄がすでに最初にある》(西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社)、 pp. 122f )  「過去」は、遠くなればなるほど、真偽不明な、曖昧な出来事と化していく。例えば、遥か遠くの国家開闢(かいびゃく)の物語を書こうとすれば、通常の技法では表現することは出来ない。だから、非日常的な<詩>という表現形式が用いられるわけである。 《それは信仰というようなものとは少し違う。過去を語ることは小ざかしい現在の意識をいっさい捨てることだ、と言っているようにみえる。物語の矛盾や辻複の合わない点に気がついていないのではない。異世界はどこまでも異世界なので、解釈などはしないと言っているだけである。解釈を後世に委ねている正確な叙述だけ心がければよい。神話が優れて歴史叙述の問題である所以(ゆえん)である》(同、 p. 123 ) このように神話は、文化がまだそれに対応していた段階では、神聖で神秘的な性格のものだった。すなわち、人々がそれを受けとる時の態度は、無条件に率直なものだった。しかし、このことを完全に承認したとしても、その当時、神話はあらゆる点で真面目なものと呼ぶことができたかどうか、この疑いが消え去らないのはもっともなことであるし確かに、われわれは、詩を一般に真面目なものとするが、その程度においては、神話をも真面目なものと言うことはできる。 理性的に物事を考え、判定する判断の閾(しきい)を越えたすべてのものと同じであって...