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アダム・スミス「公平な観察者」について(32)fellow-feeling

《国家という社会集団について、われわれは、スミスの「同胞意識」という言葉を一般化して、たとえば「一般化された同胞感情」をもっている、といってよいだろう。確かにスミスは、彼の「同感」の範囲をどこに限定するかについて明瞭に述べているわけではない。しかし、一定の関心を共有し、おおむね共有化された文化や表現様式、価値観を潜在的にもった集団、つまり国家を、その具体的世界として前提にしていたことは明らかだと思われる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 88)   fellow を「仲間」と日本語に訳すか「同胞」と訳すかで意味合いも異なってくるだろうから注意が必要だ。それを前提として、「同情」「思いやり」「共感」( fellow-feeling )は、「仲間意識」( fellow-feeling )から生じるものであるが、スミスの言う fellow-feeling の「仲間」がどの範囲までなのかは定かではない。 《それは、あまりに具体的で人格依存的な小共同体でもなく、またあまりに抽象的な人類社会といったような大共同体でもない。それは、具体的に対面しているわけではないし、具体的に知っているわけではないが、基本的な価値観や判断の基準が共有されているという暗黙の信頼の上に成立した人々の集合体なのであり、それゆえ「同胞意識」があまりに情緒的で人格依存的にならずに、一般化した形で成立しうる世界である。 そして同感の原理が一般的道徳規則をもたらすのは、あくまでこの「一般化された同胞意識」の世界なのである。なぜなら、その世界ではじめて、人々は相互に「中立的な」観察者たりうるからである。対面的な小社会の中では、人々は中立的でありえず、是認をすぐに虚栄に転化しかねない。また、全く見知らぬ人々の抽象的世界(人類社会といった)では、そもそも同感のしようがない。相手の境遇に想像上で身をおくといっても、おきようがないであろう。 結局、対面的な共同体を拡大した、またそれらをつないだ国家のような共同社会を前提にしてはじめて、虚栄を抑制できる「中立的観察者」が可能となると考えるほかないものと思われる》(同、 pp. 88f )  佐伯氏は、「仲間意識」が生じる具体的な最大の範囲として「国家」を想定することで、〈虚栄を抑制できる「中立的観察者」〉像を浮かび上がらせようとして...

アダム・スミス「公平な観察者」について(31)是認を目的とすることに伴う虚栄

《ひとたび人間的自然をまるごと認めたとした場合、その「悪」とりわけ「虚栄」や「野心」や「貪欲」をどのように抑えるか、もしくはもう少しましな形に変形できるか否か…人間的自然といったときには、こうしたさまざまな「悪」も自然のうちに人間は抱いているわけである。だからこの「悪」もまるごと含めて人間的自然をそのまま認めてしまうことが、ある意味ではもっとも人間的な「自由」だともいえよう。その意味でいえば、スミスの課題とは、「自由」な人間を前提にして、なおかつ社会の秩序をどう作るかが問題だったということもできる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 85) 《いかにして虛榮をなくすることができるか。虛無に歸(き)することによって。それとも虛無の實在性を證明(しょうめい)することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虛榮を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの實在性を證明することである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 237 ) 《他人の是認をえることと、虚栄に捕らわれることは紙一重である。他人の是認をえることはスミスもいうとおり、人間の社会生活の基本だ。だがしかし、その是認をえることのみが強迫的な自己目的となったとき、それは虚栄に変わる。その意味では是認と虚栄はきれいに分かれてしまうものではない》(佐伯、同、 p. 86 )  結果として是認が得られることと、是認を目的にすることは別物である。是認を目的にすれば、そこには何某かの虚栄が入り込まざるを得ない。他者から是認されれば嬉しいが、それを目的にしなければ、そこに虚栄が入り込む余地はない。 《是認/虚栄が作用するのは…すでに一定の価値観が共有されており、相互に全く見知らぬ間柄ではなく、しかし、直接に相手のパーソナリティまでよく知っているという「親密圏」よりは広い社会である。スミスはこうした社会における「共感」をもともと「同胞意識」と呼んでいた。いささか仲間内的な意識に支えられた同胞意識、しかし家族や知人の集団を越えた共同体、このようなレベルの共同体において、是認と虚栄はスミスが述べる意味で発揮されるであろう。 現代のわれわれに引き付けていえば、ビジネスマンにとっての職場、学者にとっての学会、主...

アダム・スミス「公平な観察者」について(30)虚栄は許されるべき

《われわれは、たとえば人に親切にして、他人から「尊敬」(つまり高度な「是認」)を受けることはできる。だが、そのうち、親切そうな「ふり」をして「尊敬」されたいと考えるようになる。このとき、われわれは「虚栄」を求めているのである。やっかいなのは、この「虚栄」もまた、もとはといえば同感の作用に基づいているということだ。  いいかえれば、評価が社会的なものだけにより、この社会的なものが評判という形を取る限り、「道徳的行為」も「道徳的に見える行為」もさしたる区別はなくなってしまうのだ。「道徳家」であることと「道徳家のふり」をしていることはさしあたり区別がつかない。両者とも社会の「是認」によって与えられるものだからである。ここに「虚栄」が発生する》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 84 ) 《人間が虛榮的であるということはすでに人間のより高い性質を示している。虛榮心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは假裝(かそう)に過ぎないかも知れない。けれども一生假裝し通した者において、その人の本性と假性とを區別(くべつ)することは不可能に近いであろう。道德もまたフィクションではないか。(省略)  人間が虛榮的であるということは人間が社會的であることを示している。つまり社會もフィクションの上に成立している。從って社會においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虛榮であるというのではない。フィクションによって生活する人間が虛榮的であり得るのである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 236 ) 《だから、ここでわれわれは、「虚栄」というものを、ただそれにまつわりついている不愉快な語感のゆえをもってしりぞけるというわけにはいかなくなる。「虚栄」は善かれ悪しかれ、人間の社会生活の基本的な事実だとまずは認めてかからなければならない。 スミスは「人間的自然(ヒューマン・ネイチャー)」から出発した。これは一方でストア的な人間観に対して、もっと人間の自然の本性そのものを基礎にしようとしたということである。ここにはいくぶん、カルヴァン派的な原罪観を裏返した「高貴な未開人」の影響があったのかもしれない。 しかし、ひとたび「人間的自然」をそのまま認めてし...

アダム・スミス「公平な観察者」について(29)虚栄

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《「同感論」から導き出されることで、スミスがこの書物の中で繰り返し強調していることのひとつは、人間はあくまで他人の是認をえ、他人に評価されることを切望しているということである。それどころか、これはほとんど人間の行為の唯一といってもよいほど決定的な契機なのである。 つまり「…に値する」と思われることこそが決定的な関心事なのだ。「値打ち」があると思われる行為には報酬が与えられ、「欠陥」があると思われる行為には処罰が与えられる。この報酬の最大のものは社会的な称賛であり尊敬である。だから「われわれがともに暮らしている人々の明快な是認と尊敬をえたいという欲望は、われわれの幸福にとって決定的なものなのである」》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 83 )  私のように、他者から評価されようがされまいが、やるべきことをやるという特殊な考えの人間は別にして、ほとんどすべての人達が、幸せを求め、他者から評価されることを望んでいるに違いない。 《他人の是認をえること、評判をえること、称賛をえること、これらは人間の行動を特徴づけるもっとも重要なものだ。しかし、注意しなければならないが、またそこから「虚栄(バニティ)」も生じるのである》(同、 pp. 83f )  三木清は言う。 《虛榮は人間的自然における最も普遍的な且(か)つ最も固有な性質である。虛榮は人間の存在そのものである。人間は虛榮によって生きている。虛榮はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 232 ) 《人は、つい、ただ「是認」をえるだけでは満足できず、「虚栄」を追い求めるようになる。そしてこの一歩は決してまれなものではないどころか、いつでも誰にでも起こりうる。なぜなら、「是認」は、確かに、ある行為の実質に対して与えられるものだが、「虚栄」は、そのような行為の「外見」あるいは「ふり」に対しても与えられるだろう、という考えに基づいているからだ》(佐伯、同、 p. 84 ) 《ヴァニティはいわばその實體(じったい)に從って考えると虛無である。ひとびとが虛榮といっているものはいわばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虛無から生れ、その現象において虛榮的である。人生の實在性を證明...

アダム・スミス「公平な観察者」について(28)道徳的判断の主体

what we call a mind , is nothing but a heap or collection of different perceptions, united together by certain relations, and suppos’d, tho’ falsely, to be endow’d with a perfect simplicity and identity. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book I. Part IV. Section II (所謂(いわゆる)「心」とは、一定の関係によって結び付けられ、完全な単純性と同一性を賦与(ふよ)されていると誤解されている、様々な知覚の堆積にすぎない)デイヴィッド・ヒューム『人性論』:第1篇:第4節:第2章 ☆ 《「主体」というアイデンティティが存在しないからこそ、そこに道徳的主体というものが形成されざるをえない…個人が道徳にコミットするのは、道徳的どころか、そもそも「主体」が存在しないからである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 pp. 70f )  個人には「主体」がない。よって、個人は自ら道徳的判断を下すことは出来ない。したがって、道徳的判断を下すためには、社会に判断基準を求めるしかない。 《人々の意見あるいは人々が現に行っていること、この種の「世間」こそが判断の基準となる》(同、 p. 74 ) ということだ。これが判断するための「叩き台」となるのだが、言うまでもなく、これは絶対的なものではない。 《むろん、「世間」にあらかじめ確かな道徳的価値が埋め込まれているわけではない…「確かなもの」はない…「世間の判断」もまた確かなものではなく、それはすぐに変わってしまう》(同)  「世間」は気まぐれなものだから、「世間の判断」も状況次第で一変しかねない頼りないものでしかない。 《主体のアイデンティティなどというものは存在しない…道徳律そのものは人間の自然の内に存在するものではない。それに代わって存在するのは…「同感(シンパシー)」の能力だけであった。そして、この感情(センチメント)のレベルで他者の立場に身をおくという「同感」によって、人は社会的存在であるほかない》(同、 ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(27)正義と自然な美徳

Judges take from a poor man to give to a rich; they bestow on the dissolute the labour of the industrious; and put into the hands of the vicious the means of harming both themselves and others. The whole scheme, however, of law and justice is advantageous to the society; and ’twas with a view to this advantage, that men, by their voluntary conventions, establish’d it. After it is once establish’d by these conventions, it is naturally attended with a strong sentiment of morals; which can proceed from nothing but our sympathy with the interests of society. We need no other explication of that esteem, which attends such of the natural virtues, as have a tendency to the public good. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book III. Part III. Section I (裁判官は、貧乏人から取り上げて金持ちに与え、勤勉な者の労務を放蕩者に与え、悪意ある者の手に自他共に害をなす手段を与える。しかしながら、法と正義の仕組み全体は、社会のためになるものであり、人間が自発的な黙約によってそれを確立したのは、この利益を期待してのことだった。このような黙約によって一度確立されてからは、当然、社会の利益に対する共感以外の何ものでもない強い道徳的感情を伴う。公益性が有る自然な美徳に付随する評価の高さについては、他に説明するまでもない)デイヴィッド・ヒ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(26)道徳的な人間

It must be some one impression, that gives rise to every real idea. But self or person is not any one impression, but that to which our several impressions and ideas are suppos’d to have a reference. If any impression gives rise to the idea of self, that impression must continue invariably the same, thro’ the whole course of our lives; since self is suppos’d to exist after that manner. But there is no impression constant and invariable. Pain and pleasure, grief and joy, passions and sensations succeed each other, and never all exist at the same time. It cannot, therefore, be from any of these impressions, or from any other, that the idea of self is deriv’d; and consequently there is no such idea. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book I. Part IV. Section VI. (あらゆる実在の観念を生み出すのは、ある1つの印象に他ならない。しかし、「自己」や「私」は、ある1つの印象ではなく、我々の幾つかの印象と観念が参照すると考えられているものである。何らかの印象が自己という観念を生じさせるとすれば、その印象は、我々の生涯を通して、常に同じであり続けなければならない。自己とはそのように存在すると考えられるからである。しかし、不変の印象など存在しない。苦痛と快楽、悲しみと喜び、情熱と感覚は、次々継起するが、決し...