ヘミングウェイ『老人と海』について(6) 全6回
《私は、「地獄篇」の第一章を最初に読む時に、そこに出て来る豹(ひょう)や、獅子や、牝の狼の意味を気に掛ける必要はないと思う。初めは、そんなことは考えない方がいいのである。我々は、詩に出て来る影像の意味を問題にするよりも、逆に、或ることを言おうとする人間がそれを影像で表現するという、その精神的な過程に就(つい)て考えて見なければならない。それは、性格的にだけでなくて、習慣によっても、表現に寓意を用いるのはどういう型の精神の持主かということであり、そして有能な詩人には、寓意ははっきりした視覚的な影像を提供するものである。又、はっきりした視覚的な影像は、それが何かの意味を持つことでずっと烈しいものになるのであり、―我々はその意味が何であるか知らなくても、その影像に打たれることで、それが或る意味を持っていることにも気付かずにはいられない。寓意は詩人が用いる方法の一つに過ぎないが、それは非常に特色がある方法なのである。 ダンテの想像力は視覚的な性質のものだった。併(しか)しそれは、静物画を書く今日の画家の想像力が視覚的であるのとは違った意味なので、ダンテが、まだ人間が幻想に見舞われる時代に生きていたということなのである。そしてこの、幻想に見舞われるというのは一つの心理的な習慣だったので、我々はそれをもう忘れてしまったが、現在、我々の習慣のどれか一つでもそれに優るものがある訳ではない。我々は夢を見るだけでー幻想に見舞われるということが、―それが今では、精神異常のものや、無学なものにしか起らないことになっているが、―嘗(かつ)てはもっと内容もあり、興味もある、訓練された一種の夢の見方だったことは考えずにいる。我々は、夢は我々の世界の下部から生じるものと決めていて、我々が見る夢の質がその為に低下しているということだってあるに違いない》(『エリオット全集 4 詩人論』(中央公論社)吉田健一訳、 p. 341 ) ヘミングウェイを語るにあたってしばしば言及されるものに『氷山の理論』( Iceberg Theory )というものがある。 If a writer of prose knows enough about what he is writing about, he may omit things that he knows and the reader, if t...