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アダム・スミス「公平な観察者」について(16)「同感」という言葉

カントに話題が逸(そ)れてしまったので、佐伯氏の解説を再掲する。 《まず「想像上の境遇の交換」が前提としてある。その上で「他人の諸情念を、その対象にとって完全に適合的なものとして是認することは、われわれはそれに完全に同感すると述べるのと等しい」のである。私が飢えているとき、隣人を縛り上げて食べ物を奪うという行為は、決して、先験的に不道徳なのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 pp. 61f )  食べなければ死ぬという状況において、他者の食べ物を奪って食べることは、必ずしも「不正行為」とは言えないのかどうか。似たような事件に、裁判官の山口良忠氏が、敗戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食管法に沿った配給のみを食べ続けたために、栄養失調で餓死した事件があった。死んでも守らなければならない法律など果たして存在するのかという問題だ。法律とは、人々が社会において円滑な生活を営むために守るべき根本規範であるのだから、それを守れば死んでしまうような法律など法律の趣旨に反するということだ。 《「同感」とは「想像の上で他者の境遇に身をおく」ことであるが、ここで次のことに注意しておかねばならない。私が、その行為を対象化して「想像の上で他者の境遇に身をおく」ときには、この「わたし」は、欲望に突き動かされて相手に働きかける「わたし」ではない。ここで「わたし」は、行為する「わたし」をいわば観察しているのである。私は「観察するわたし」と「行為するわたし」に分かれているはずなのである。さもなければ、私が「想像の上で相手の境遇に身をおく」ことはできないだろう。だが、実際にはこれは難しいことである。情念に突き動かされているその瞬間に「行為するわたし」から「観察するわたし」を分離させることなど果たしてできるのだろうか。とすれば実際には、私は、私の行為を道徳的かどうか判断することなどできないだろう》(同、 p. 62 )  少し言葉の問題にこだわってみたい。スミスの言う sympathy とは、 pathy (感情)を sym (共に)するということである。 Longman Dictionary of Contemporary English を引くと3つの定義が見られる。 1. the feeling of being sorry for som...

アダム・スミス「公平な観察者」について(15)先験的とは

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《まず「想像上の境遇の交換」が前提としてある。その上で「他人の諸情念を、その対象にとって完全に適合的なものとして是認することは、われわれはそれに完全に同感すると述べるのと等しい」のである。私が飢えているとき、隣人を縛り上げて食べ物を奪うという行為は、決して、先験的に不道徳なのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 61f)  〈先験的〉とは、「経験に先んじて」ということであるが、イマヌエル=カントはこの言葉を用いて、深遠な学説を唱えているので、その触りの部分を見ておこう。 《空間・時間において直観される一切のものは、あくまでわれわれに経験される「現象」であって、それ自体存在するもの(=物自体)ではない。およそわれわれが表象する対象は、延長をもった「物」、あるいはなんらかの変化の系列であり、われわれの経験の向こうにそれ自体存在しているもの(物自体)ではないのだ。  人間は、ただその感性形式を通して“現れてきた”対象しか、表象したり、認識したり、経験することはできない。そしてその原因となる「物自体」は、われわれには決して経験されないものとしてとどまっている。この学説を私は「先験的観念論」と名づける。また、これを形式的観念論と呼んで、実質的観念論――実在それ自体を疑い否定する経験的観念論――と区別してもよい。  ところが実在論者は、この「現象」にすぎないものを、物自体と考える。つまり、実在物=物自体と考える。また、われわれの先験的観念論の立場は、経験的観念論(⇒存在物の現実存在それ自体を疑い否定するバークリー、ヒュームなどの経験論)とも同じものではない。  先験的観念論は「現象」の実在を否定はしないが、それがあくまで人間の経験にとっての「現象」であり、「対象それ自体」として実在するものではないことを主張する。さらにまた、われわれに与えられる「心」(心意識)のありようも、あくまで「現象」であると主張する。  たとえば「月に生き物がいるかもしれない」ということは、かつて誰もそれを見たことがないとしても、経験の可能性としてはありうることだから、これを絶対的に拒否することはできない。しかし言うまでもないが、そういったことはあくまでわれわれの経験の可能性の枠内のことであって、「物自体」としての問題ではない。  要するに、われわ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(14)想像によって自分を相手の境遇に置く

《ある行為の適宜性を判定するのは、想像上において相手の立場に身をおくところからでてくる判断にほかならない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 61) 私達の想像力が写し取るのは、他人の感覚ではなく、私達自身の感覚の印象でしかない。想像力によって、私達は自分自身を彼の境遇に置き、自分が同じ苦痛に耐えているのを思い浮かべ、あたかも他人の体の中に入り込み、他人と同じ人間になり、そこから他人の感覚をいくらか思い浮かべ、程度は弱くとも、まったく似ていないわけではない何かを感じさえするのである。こうして他人の苦悩が私達自身に齎(もたら)され、私達がそれを取り入れ、自分のものとしたとき、他人の苦悩はついに私達に影響を及ぼし始め、そのとき私達は、他人が感じていることを想像して震え上がる。どのような種類の苦痛や苦悩の中にいても、最も過大な悲しみが沸き起こるように、自分がその中にいると考えたり想像したりすることも、その考えが生き生きとしたものか、ぼんやりとしたものかに応じて、ある程度同じ感情を沸き起こらせるのである。 これが他人の不幸に対する共感の源であり、苦しんでいる人と空想の中で立場を変えることによって、その人が感じていることを想像したり、心を動かされたりするようになるということは、それ自体では十分に明らかだとは思われないにしても、多くの明白な観察によって実証され得ることである。―アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ(2)想像力( imagination )  相手の行為の適宜( propriety )を判断するためには、相手の立場になって考えることが必要だ。ここで問うているのは、相手が置かれた状況において、その行為が適切か否かということであって、例えば、道徳的に正しいか否かというようなことではない。 《「同感」とは想像の上で他者の境遇に身をおき、その上で他者の情念を自らのそれと引き比べてみる能力である》(同) 私達は、2つの異なる動機に基づいて、他人の感情が自分の感情と一致するかどうかによって、その感情が適切であるかどうかを判断できる。1つは、感情を沸き起こす動機が、自分にも、その感情を判断する相手にも、特別な関係がないと考えられる場合、もう1つは、その感情が私達のどちらかに特別な影響を及ぼすと考えられる場合である。―アダム・スミス『道...

アダム・スミス「公平な観察者」について(13)アダム・スミスの試み

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《『道徳感情論』においてスミスが試みたことは、一言でいえば、道徳性の基礎を、人間の自然な感情から導き出すことであった。これは、当時の通俗的な見解、ひとつは、道徳をキリスト教という絶対的倫理から導くというやり方とも、また道徳の基礎を、人間理性に求める啓蒙主義的な思考とも異なるもので、これらと対比させてみれば、相当にユニークでかつ斬新的な試みであったといってよいだろう》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)』(PHP新書)、 p. 60 )  時は、宗教的観念の中に位置付けられてきた道徳が、啓蒙主義によって新たな観念の世界に組み込まれようとしていた時代であった。そこでスミスは、道徳を観念の世界から救うべく『道徳感情論』を上梓(じょうし)したのであった。  スミスの問題意識は、 《果たして、ある行為が正しいとされ、またある行為は間違いだとされるその根拠はどこにあるのだろうか。つまり道徳の「一般的規則」はどこから発生するのだろうか》(同) というものであった。 《あらゆる行為は通常それなりの動機をもち、またその対象あるいは帰結に対して一定の関係をもっているだろう。端的にいえば、行為には動機と結果がある。そこで行為の動機をうみだすものを「情念」だとすれば、ここで問題となるのは、行為をうみだす情念と、行為の帰結との間の関係だということになる。そして、この関係がうまくいっているかどうかを指す概念がとりあえずは「適宜性」(propriety)にほかならない》(同、p. 61) It has already been observed, that the sentiment or affection of the heart, from which any action proceeds, and upon which its whole virtue or vice depends, may be considered under two different aspects, or in two different relations: first, in relation to the cause or object which excites it; and, secondly, in relation to the end w...

アダム・スミス「公平な観察者」について(12)良心という名の判断基準

《大事な点は、道徳的な善悪基準は「世間次第」で、「世間が道徳を決める」ということです。自分の行動が正しいか、間違っているかは自分で判断できるということはないわけです。  ここを勘違いしてしまうと「結局自分で判断すればいいので、自分がいいと思うことは、何でもやっていい」となってしまいます》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、 p. 70 )  このような言い方をすれば、道徳を決めるのは世間であって自分ではないかのように聞こえるが、そうではない。世間には自分も含まれる。が、注意すべきは道徳を決める世間とは、自分の周りといった「狭い社会」ではなく、空間的そして時間的に広がりのある「広い社会」を指すと考えなければならない。 《スミスが考えたことは、自分が属する社会から「自分の中の裁判官」を形作るということ。あくまでも判断基準は「自分」ではなく「社会」なのです》(同)  これももう少し丁寧に言わなければ誤解を招くだろう。 如何に強い自己愛の衝動であっても、それをこのように妨げることが出来るのは、思いやりという柔らかな力でも、造物主が人間の心に灯(とも)した弱々しい博愛の火花でもない。このような場面で力を発揮するのは、もっと強い力であり、もっと力強い動機である。それは理性であり、原理であり、良心であり、胸中の住人であり、内部の人間であり、自分の行動の偉大な裁判官であり、調停者である。他人の幸福に影響を及ぼすような行動をとろうとするときにはいつでも、自分の感情の中で最も厚かましい感情を驚かせることのできる声で、自分は大勢の中の1人に過ぎず、その中で他の誰よりも優れている点など何1つないのだ、そして、とても恥ずかしくも、そしてとても闇雲(やみくも)に他者よりも自分を優先すれば、自分が怨恨、嫌悪、非難の対象になるということを自分に呼びかけるのが、この人なのである。(アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ( 56 )偉大な裁判官と調停者 )  自分の中の法廷における判断基準は、「自分」でもなく「社会」でもなく、自らの「良心」( conscience )ということだ。 《アダム・スミスが一番主張したかったのは、善悪の判断は自分で決めることはできないということです。何が正しくて、何が間違っているかを決める...

アダム・スミス「公平な観察者」について(11)原則の影響力

When these general rules, indeed, have been formed, when they are universally acknowledged and established, by the concurring sentiments of mankind, we frequently appeal to them as to the standards of judgment, in debating concerning the degree of praise or blame that is due to certain actions of a complicated and dubious nature. They are upon these occasions commonly cited as the ultimate foundations of what is just and unjust in human conduct; and this circumstance seems to have misled several very eminent authors, to draw up their systems in such a manner, as if they had supposed that the original judgments of mankind with regard to right and wrong, were formed like the decisions of a court of judicatory, by considering first the general rule, and then, secondly, whether the particular action under consideration fell properly within its comprehension. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《実際、このような原則が形成され、人類の感情が一致して、普(あまね)く承認され、確立されている場合は、複雑で疑わしい性質を有(も)つ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(10)原則の形成

To the man who first saw an inhuman murder, committed from avarice, envy, or unjust resentment, and upon one too that loved and trusted the murderer, who beheld the last agonies of the dying person, who heard him, with his expiring breath, complain more of the perfidy and ingratitude of his false friend, than of the violence which had been done to him, there could be no occasion, in order to conceive how horrible such an action was, that he should reflect, that one of the most sacred rules of conduct was what prohibited the taking away the life of an innocent person, that this was a plain violation of that rule, and consequently a very blamable action. –Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《強欲・妬み・不当な恨みから、犯人を愛し信頼していた人が冷酷にも殺されるのを初めて見、死に瀕する人の最後の苦しみを目の当たりにし、息絶え絶えの人が自分に加えられた暴力よりも、不実の友人の裏切り忘恩を訴えるのを聞いた人にとって、このような行為がいかに恐ろしいものであるかを想像するために、最も神聖な行為規範の1つが、罪のない人の命を奪うことを禁止するものであることであり、この行為はその規範に明白に反するが故に、まさに非難されるべき行為であるということを、反省する機会はないだろう》 ―アダム・スミス『道徳感情論』第 3 部 第 4 章 His ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(9)原則(general rule)

Some of their actions shock all our natural sentiments. We hear every body about us express the like detestation against them. This still further confirms, and even exasperates our natural sense of their deformity. It satisfies us that we view them in the proper light, when we see other people view them in the same light. We resolve never to be guilty of the like, nor ever, upon any account, to render ourselves in this manner the objects of universal disapprobation. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《彼らの行動の中には、私達を不快にさせるものも勿論ある。彼らに対し、周りの誰もが同じような嫌悪を口にしているのを耳にする。このことは、私達が彼らをおぞましく感じたのは当然だと一層裏付けてくれて、さらに不快感は増す。他人が同じような見方をしているのを見ると、自分が彼らを適切な見方で見ているのだと納得する。自分は、決して同じことは犯すまい、如何なる理由があろうとも、自分はこのように全員の非難の的とはなるまいと心に誓うのである》 ―アダム・スミス『道徳感情論』第 3 部 第 4 章 We thus naturally lay down to ourselves a general rule, that all such actions are to be avoided, as tending to render us odious, contemptible, or punishable, the objects of all those sentiments for which we have the gre...

アダム・スミス「公平な観察者」について(8)「正しい」ということ

《昔は「善」とされていたものでも、いまでは「間違っている」こともあります。奴隷制度や人身売買が普通に行われていた中世を考えれば、善悪の基準が移り変わってきたことが分かるでしょう。現在「正しい」とされていることは、なぜ「正しい」のか? それは「世間が正しいと考えているから」にほかならないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 68)  成程、スミスは次のように言っている。 The different situations of different ages and countries are apt … to give different characters to the generality of those who live in them, and their sentiments concerning the particular degree of each quality, that is either blamable or praise-worthy, vary, according to that degree which is usual in their own country, and in their own times. - Adam Smith, The Theory of moral sentiments : Part V Of the Influence of Custom and Fashion upon the Sentiments of Moral Approbation and Disapprobation Consisting of One Section: Chap. II Of the Influence of Custom and Fashion upon Moral Sentiments 《時代や国が異なれば状況も異なり、そこで暮らす大部分の人々の性格も異なってくるのであって、非難すべきか、称賛に値するか、性質毎の詳細な程度に関する感情は、自分が暮らすの国や時代で通常である程度に応じて変わってくる》―アダム・スミス『道徳感情論』第5部 道徳的称賛と非難の感情に及ぼす習慣と流行の影響について:第2章 道徳感情に及ぼす習慣と流行の影響について...

アダム・スミス「公平な観察者」について(7)世間の声は正しい?

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《自分独りで生活している時に、自分の顔の善し悪しを判断できないのと同じように、自分の行動が道徳的に正しいか、間違っているかは分からないのです。「他人からの評価」を聞いて初めて、自分の行いの善悪を判断できるのです。つまり、自分の行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だということです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 66)  行動の正邪は相対的な評価なので、自分独りで生活しているときは、判断できないというよりも、そもそも判断する必要がない。判断が必要となるのは、社会的評価が気になるときである。ここで、〈行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だ〉と木暮氏は言うのであるが、果たしてそうか。 《他人(世間)は気まぐれな評価をすることがあります。しかし、全体的に・長い目で考えると、そういう人は一部分で、大多数の人は「正しい評価」をしてくれます。  つまり「世間の声」は、「通常は正しい」のです》(同) というのは世間知らずの阿呆というものであろう。木暮氏が何をもって「正しい」と考えているのか分からないが、世間が正しいなどという話は断じて受け入れられない。 《孤立していたときには、恐らく教義のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。原始人のような、自然さと激しさと凶暴さを具(そな)え、また熱狂的な行動や英雄的な行動に出る。言葉や心象によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に煽動されやすい点からも、さらにいっそう原始人に近いのである。群衆中の個人とは、あたかも風のまにまに吹きまくられる砂粒のなかの一粒のようなものだ》(ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 pp. 35f )  世間の判断は、正しいか否かで見るべきものではない。世間の判断を黙って受け入れるのか、それに反発するのか、それとも無視を決め込むのか対応が分かれるだけである。世間が正しいなどということを前提にすれば、如何に理不尽なことが突き付けられようとも、世間に反発するのはただの反逆者だということになってしまう。それでは自らの精神の平衡を保てない。 《ただ、「通常は正しい」というより、「正しいのは世間」と考えた方がいいかもしれ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(6)「良心」という名の「裁判官」

《人間は自分の中に作った「裁判官」の判断に従って、自分の行動の善悪を判断するようになります。ただし、「社会からどう思われるか」を知るために、且分の中に評価を下す人を作るわけですから、その「裁判官」の判断基準は、社会と同じでなければいけません。「裁判官」自体は、自分の中に作りますが、裁判官が持っている「法律(判断基準)」は世間の声をもとに創らないといけないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、pp. 63f)  が、この「裁判官」は、自分の中に人工的に作るようなものではなく、自生的に成長する自然な存在であろう。 人間はこのようにして、人類の直接的な審判者とされたとはいえ、そうされたのは第一審でしかなく、その判決から、ずっと高次の法廷に、すなわち自分自身の良心の法廷に、公平で十分な情報を持つと思われる観察者の法廷に、そして自分たちの行為の偉大な裁判官であり裁定者である胸中の人類の法廷に、上訴できるのである。この2つの法廷の管轄権は、ある点では類似し、同種のものであるけれども、現実には異なった別個の原理に基づいている。  外部の人間の裁判権は、現実の称賛を望み、現実の非難を嫌うことにまったく基づいている。内部の人間の裁判権は、称賛に値することを望み、非難に値することを嫌うことに、他人を愛し称賛するような資質を有(も)ち、そのような行動をしたいという望み、他人の中で私達が憎み、軽蔑するような資質を有ち、そのような行動をすることを怖れることにまったく基づいている。 (アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ( 48 )2つの裁判権 ) 《そのため人は、自分が生きている社会が一般的に何を「善」として、何を批難するかを考えます。というより、生活のなかで「世間の判断基準」を見つけ、集めていきます。つまり、自分が社会と関わっていく中で、「この社会での一般的な判断基準」を見つけて、それを「法律」として「自分の中の裁判官」が吸収していくわけです。それが「道徳規準」になるのです》(同、 p. 64 )  が、〈高次の法廷〉とはそのようなものではないだろう。人は、世間が下した〈第一審〉判決に不服な場合、心の中にある〈高次の法廷〉に上訴する。自らの「良心」( conscience )の判断基準は、必ずしも世間...

アダム・スミス「公平な観察者」について(5)善悪の裁判官

《社会全般で榛準的な判断基準があればいいのです。周りにいる一人ひとりは偏った見方をするかもしれませんが、社会全般で見れば、標準的で偏りがない評価をしてくれます。その基準を参照できればいいわけです。スミスはその基準を「自分の中に作る」と考えました》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 62)  〈社会全般で見れば、標準的で偏りがない評価をしてくれます〉とは何と楽観的な話だろう。そもそも〈社会全般〉とはどういうものを想定しているのであろうか。マスコミの世論調査のようなものか。が、個人の評価などそのような一斉調査が出来るはずがない。だとすれば、せいぜいが身近にいる多くの人達の評価ということになるのだろう。が、社会全般のような大きな母集団であれば、一定公正な評価も期待できようが、身近の多くといった小さな母集団であれば、評価のブレ幅が大きくならざるを得ない。  もし、木暮氏の言うように、社会全般による公正な評価が得られるのであれば、わざわざ自分の内部に「公平な観察者」( impartial spectator )など想定する必要がない。社会から必ずしも公正な評価が得られるとは限らないから、自分の内部に「公平な観察者」を想定する必要をスミスは感じているのだ。 《常に参照でき、しかも偏っていない道徳規準を周囲に求めることはできません。そのため結局は自分の中に善悪の判断基準を持つようになるとスミスは考えました》(同、 p. 63 )  これも誤読であろう。木暮氏は、〈善悪の判断基準〉を自分の中に持つと言うが、そもそもそのような基準は存在しようがない。我々は、物事の是非をそのような基準に照らし合わせて判断しているのではない。自分の経験に照らし、其の時そのとき、帰納的に1つひとつ考えるのだ。過去に同じ事例があれば、それを踏襲することもあるかもしれないが、それとて前回とは置かれた状況は異なっているであろうから、もう一度検討を加える必要出てくるはずである。 《つまり、人は自分の中に「偏りがない、善悪の判断基準」を持つ、「善悪のジャッジ(裁判官)」を持つのです》(同)  が、そのような基準をもつことは誰にも不可能である。ただし、「偏りがない、善悪の判断基準」と「善悪の裁判官」は別物であり、裁判官は自分の中に実...

アダム・スミス「公平な観察者」について(4)帰納法

《人間は誰しも世間の賛同を得たい、世間からよく思われたいと感じています。ですから、他人の目を気にして行動するわけです。ところが、  100 人中 100 人に賛同してもらうことはできないわけです。誰かに気に入られようとすれば、別の人には嫌われる可能性もあります。一様に気に入られることはできないのです。  では、誰の基準に合わせればいいのか?》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、 p. 60 )  〈人間は誰しも世間の賛同を得たい、世間からよく思われたい〉と感じているとすれば、それは世間知らずのお坊ちゃんでしかない。人間、大人になれば、世間には様々な人がいて、賛同もあれば反対もある、よく思う人もいればよく思わない人もいる、ということが分かる。特定の人の賛同を得ようとすることは可能だし、よく思われようとすることもあるだろう。が、世間全般にそれを期待することなど有り得ない。 《自分が気にするべき「相手」は、他人ではなく、自分の中に設けた「基準」なのです》(同、 p. 61 )  世間には色々な人がいるから、世間の反応をいちいち気にしても仕方がない。気にすべきは、〈自分の中に設けた「基準」〉だ、と木暮氏は言うのである。が、世間には色々な人がいるからこそ、世間の反応を気にしなければならないのではないか。様々な意見があってはじめて、自分の中に公正な「判断基準」を持つことが出来るからである。賛成意見も反対意見も取り入れるからこそ公正な基準と成り得るということだ。  また、〈自分が気にするべき「相手」は…自分の中に設けた「基準」〉という言い方も気に懸(か)かる。ここで言う〈基準〉とは何か。  対外的な活動の基準となるのが、法律と習律である。が、対内的活動にはこのような基準がない。だから我々は物事の是非を「考える」。そこで用いられるのが、「帰納法」という手法である。 38 The idols and false notions which are now in possession of the human understanding, and have taken deep root therein, not only so beset men’s minds that truth can har...

アダム・スミス「公平な観察者」について(3)論理と感情

《自分が他人から評価をされているわけです。この時は、「他人から悪い評価を受けたくない」と感じるでしょう》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 58) 「他人から悪い評価を受けたくない」というのも小市民的発想である。例えば、間違った情報が流布されて、自分の評価が良くなったとしても、それで喜べるだろうか。逆に、誤った情報で悪評が立つのも憤懣(ふんまん)遣る方(やるかた)無いだろう。評価が良くても悪くてもそれが正当なものであるのなら仕方ない。が、評価するなら偏見なく公正に評価して欲しいと多くの人が思うのではなかろうか。 《人は、自分のしたこと、感じたことに対して、世間にも同調してもらいたいと考えています。スミスによれば、この「世間に賛同してほしい」という願望は、何もわたしたちが特別にそう感じているわけではなく、人類共通で、しかも最重要の願いです。  つまり、人間は他人からの「同感」を得たくて仕方がない生き物なのです。そして常に同感を得られるように、行動する生き物なのです》(同、 pp. 58f )  昨今の言い回しで言えば、「承認欲求」ということであろう。多くの人には周りの人に認めてもらいたいという「承認欲求」があることは事実であろう。 友人が私の喜びに共感を示せば、確かにその喜びは活気づけられ、嬉しいだろうが、他人が私の悲しみに共感を示してくれても、悲しみが増しこそすれ、何も嬉しくはない。けれども、共感は、喜びを活気づけ、悲しみを和らげる。違う満足源を示すことで喜びを活気づけ、そのとき受け取ることの出来るほとんど唯一の快い感覚を心に染み込ませることで悲しみを和らげるのである。  それゆえに、何としても友人に愉快な感情よりも不愉快な感情の方を伝えたがり、後者(楽しい感情)への共感よりも、前者(不愉快な感情)への共感から得られる満足感の方が大きく、共感が得られなければびっくりするといったことが観られるであろう。(スミス『道徳感情論』:拙ブログ(9)・拙ブログ(10)) 《つまり、わたしたちは、周囲の人、社会から認めてもらえる、賛同してもらえるような行動をとろうとしているわけです。変な表現になってしまいますが「他人の目を気にして生きている」わけです。  これがスミスが唱えた「理論」のす...

アダム・スミス「公平な観察者」について(2)人間は、他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるかを考える?

《スミスは、「人間は『他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるか』を考える」としていました。これが前提です》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 56)  が、〈『他人の行動を見て、自分も同じことをするか、同じことを感じるか』を考える〉とまで言うのは言い過ぎである。スミスが言っているのは、自分を他人の境遇に置いて、その人が感じていることを想像するということまでである。 私達の想像力が写し取るのは、他人の感覚ではなく、私達自身の感覚の印象でしかない。想像力によって、私達は自分自身を彼の境遇に置き、自分が同じ苦痛に耐えているのを思い浮かべ、あたかも他人の体の中に入り込み、他人と同じ人間になり、そこから他人の感覚をいくらか思い浮かべ、程度は弱くとも、まったく似ていないわけではない何かを感じさえするのである。こうして他人の苦悩が私達自身に齎(もたら)され、私達がそれを取り入れ、自分のものとしたとき、他人の苦悩はついに私達に影響を及ぼし始め、そのとき私達は、他人が感じていることを想像して震え上がる。どのような種類の苦痛や苦悩の中にいても、最も過大な悲しみが沸き起こるように、自分がその中にいると考えたり想像したりすることも、その考えが生き生きとしたものか、ぼんやりとしたものかに応じて、ある程度同じ感情を沸き起こらせるのである。  これが他人の不幸に対する共感の源であり、苦しんでいる人と空想の中で立場を変えることによって、その人が感じていることを想像したり、心を動かされたりするようになるということは、それ自体では十分に明らかだとは思われないにしても、多くの明白な観察によって実証され得ることである。(スミス『道徳感情論』: 拙ブログ(2)想像力( imagination ) 参照) 《わたしたちが他人の行動を評価しているということは、周りの人びとも、わたしたちの行動を評価しているということになります。  つまり、自分の行動は、常に社会全体から評価されているのです》(同、 p. 58 )  私達が他人の行動を評価するからといって、周りの人々が私達の行動を評価するとは限らない。そこには興味関心がなければならない。興味がない人を評価するなどということはない。  また、たとえどれほど著...