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アダム・スミス「公平な観察者」について(32)fellow-feeling

《国家という社会集団について、われわれは、スミスの「同胞意識」という言葉を一般化して、たとえば「一般化された同胞感情」をもっている、といってよいだろう。確かにスミスは、彼の「同感」の範囲をどこに限定するかについて明瞭に述べているわけではない。しかし、一定の関心を共有し、おおむね共有化された文化や表現様式、価値観を潜在的にもった集団、つまり国家を、その具体的世界として前提にしていたことは明らかだと思われる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 88)   fellow を「仲間」と日本語に訳すか「同胞」と訳すかで意味合いも異なってくるだろうから注意が必要だ。それを前提として、「同情」「思いやり」「共感」( fellow-feeling )は、「仲間意識」( fellow-feeling )から生じるものであるが、スミスの言う fellow-feeling の「仲間」がどの範囲までなのかは定かではない。 《それは、あまりに具体的で人格依存的な小共同体でもなく、またあまりに抽象的な人類社会といったような大共同体でもない。それは、具体的に対面しているわけではないし、具体的に知っているわけではないが、基本的な価値観や判断の基準が共有されているという暗黙の信頼の上に成立した人々の集合体なのであり、それゆえ「同胞意識」があまりに情緒的で人格依存的にならずに、一般化した形で成立しうる世界である。 そして同感の原理が一般的道徳規則をもたらすのは、あくまでこの「一般化された同胞意識」の世界なのである。なぜなら、その世界ではじめて、人々は相互に「中立的な」観察者たりうるからである。対面的な小社会の中では、人々は中立的でありえず、是認をすぐに虚栄に転化しかねない。また、全く見知らぬ人々の抽象的世界(人類社会といった)では、そもそも同感のしようがない。相手の境遇に想像上で身をおくといっても、おきようがないであろう。 結局、対面的な共同体を拡大した、またそれらをつないだ国家のような共同社会を前提にしてはじめて、虚栄を抑制できる「中立的観察者」が可能となると考えるほかないものと思われる》(同、 pp. 88f )  佐伯氏は、「仲間意識」が生じる具体的な最大の範囲として「国家」を想定することで、〈虚栄を抑制できる「中立的観察者」〉像を浮かび上がらせようとして...

アダム・スミス「公平な観察者」について(31)是認を目的とすることに伴う虚栄

《ひとたび人間的自然をまるごと認めたとした場合、その「悪」とりわけ「虚栄」や「野心」や「貪欲」をどのように抑えるか、もしくはもう少しましな形に変形できるか否か…人間的自然といったときには、こうしたさまざまな「悪」も自然のうちに人間は抱いているわけである。だからこの「悪」もまるごと含めて人間的自然をそのまま認めてしまうことが、ある意味ではもっとも人間的な「自由」だともいえよう。その意味でいえば、スミスの課題とは、「自由」な人間を前提にして、なおかつ社会の秩序をどう作るかが問題だったということもできる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 85) 《いかにして虛榮をなくすることができるか。虛無に歸(き)することによって。それとも虛無の實在性を證明(しょうめい)することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虛榮を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの實在性を證明することである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 237 ) 《他人の是認をえることと、虚栄に捕らわれることは紙一重である。他人の是認をえることはスミスもいうとおり、人間の社会生活の基本だ。だがしかし、その是認をえることのみが強迫的な自己目的となったとき、それは虚栄に変わる。その意味では是認と虚栄はきれいに分かれてしまうものではない》(佐伯、同、 p. 86 )  結果として是認が得られることと、是認を目的にすることは別物である。是認を目的にすれば、そこには何某かの虚栄が入り込まざるを得ない。他者から是認されれば嬉しいが、それを目的にしなければ、そこに虚栄が入り込む余地はない。 《是認/虚栄が作用するのは…すでに一定の価値観が共有されており、相互に全く見知らぬ間柄ではなく、しかし、直接に相手のパーソナリティまでよく知っているという「親密圏」よりは広い社会である。スミスはこうした社会における「共感」をもともと「同胞意識」と呼んでいた。いささか仲間内的な意識に支えられた同胞意識、しかし家族や知人の集団を越えた共同体、このようなレベルの共同体において、是認と虚栄はスミスが述べる意味で発揮されるであろう。 現代のわれわれに引き付けていえば、ビジネスマンにとっての職場、学者にとっての学会、主...

アダム・スミス「公平な観察者」について(30)虚栄は許されるべき

《われわれは、たとえば人に親切にして、他人から「尊敬」(つまり高度な「是認」)を受けることはできる。だが、そのうち、親切そうな「ふり」をして「尊敬」されたいと考えるようになる。このとき、われわれは「虚栄」を求めているのである。やっかいなのは、この「虚栄」もまた、もとはといえば同感の作用に基づいているということだ。  いいかえれば、評価が社会的なものだけにより、この社会的なものが評判という形を取る限り、「道徳的行為」も「道徳的に見える行為」もさしたる区別はなくなってしまうのだ。「道徳家」であることと「道徳家のふり」をしていることはさしあたり区別がつかない。両者とも社会の「是認」によって与えられるものだからである。ここに「虚栄」が発生する》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 84 ) 《人間が虛榮的であるということはすでに人間のより高い性質を示している。虛榮心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは假裝(かそう)に過ぎないかも知れない。けれども一生假裝し通した者において、その人の本性と假性とを區別(くべつ)することは不可能に近いであろう。道德もまたフィクションではないか。(省略)  人間が虛榮的であるということは人間が社會的であることを示している。つまり社會もフィクションの上に成立している。從って社會においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虛榮であるというのではない。フィクションによって生活する人間が虛榮的であり得るのである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 236 ) 《だから、ここでわれわれは、「虚栄」というものを、ただそれにまつわりついている不愉快な語感のゆえをもってしりぞけるというわけにはいかなくなる。「虚栄」は善かれ悪しかれ、人間の社会生活の基本的な事実だとまずは認めてかからなければならない。 スミスは「人間的自然(ヒューマン・ネイチャー)」から出発した。これは一方でストア的な人間観に対して、もっと人間の自然の本性そのものを基礎にしようとしたということである。ここにはいくぶん、カルヴァン派的な原罪観を裏返した「高貴な未開人」の影響があったのかもしれない。 しかし、ひとたび「人間的自然」をそのまま認めてし...

アダム・スミス「公平な観察者」について(29)虚栄

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《「同感論」から導き出されることで、スミスがこの書物の中で繰り返し強調していることのひとつは、人間はあくまで他人の是認をえ、他人に評価されることを切望しているということである。それどころか、これはほとんど人間の行為の唯一といってもよいほど決定的な契機なのである。 つまり「…に値する」と思われることこそが決定的な関心事なのだ。「値打ち」があると思われる行為には報酬が与えられ、「欠陥」があると思われる行為には処罰が与えられる。この報酬の最大のものは社会的な称賛であり尊敬である。だから「われわれがともに暮らしている人々の明快な是認と尊敬をえたいという欲望は、われわれの幸福にとって決定的なものなのである」》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 83 )  私のように、他者から評価されようがされまいが、やるべきことをやるという特殊な考えの人間は別にして、ほとんどすべての人達が、幸せを求め、他者から評価されることを望んでいるに違いない。 《他人の是認をえること、評判をえること、称賛をえること、これらは人間の行動を特徴づけるもっとも重要なものだ。しかし、注意しなければならないが、またそこから「虚栄(バニティ)」も生じるのである》(同、 pp. 83f )  三木清は言う。 《虛榮は人間的自然における最も普遍的な且(か)つ最も固有な性質である。虛榮は人間の存在そのものである。人間は虛榮によって生きている。虛榮はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである》(三木清「人生論ノート」虛榮について:『三木清全集』(岩波書店)第 1 巻、 p. 232 ) 《人は、つい、ただ「是認」をえるだけでは満足できず、「虚栄」を追い求めるようになる。そしてこの一歩は決してまれなものではないどころか、いつでも誰にでも起こりうる。なぜなら、「是認」は、確かに、ある行為の実質に対して与えられるものだが、「虚栄」は、そのような行為の「外見」あるいは「ふり」に対しても与えられるだろう、という考えに基づいているからだ》(佐伯、同、 p. 84 ) 《ヴァニティはいわばその實體(じったい)に從って考えると虛無である。ひとびとが虛榮といっているものはいわばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虛無から生れ、その現象において虛榮的である。人生の實在性を證明...

アダム・スミス「公平な観察者」について(28)道徳的判断の主体

what we call a mind , is nothing but a heap or collection of different perceptions, united together by certain relations, and suppos’d, tho’ falsely, to be endow’d with a perfect simplicity and identity. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book I. Part IV. Section II (所謂(いわゆる)「心」とは、一定の関係によって結び付けられ、完全な単純性と同一性を賦与(ふよ)されていると誤解されている、様々な知覚の堆積にすぎない)デイヴィッド・ヒューム『人性論』:第1篇:第4節:第2章 ☆ 《「主体」というアイデンティティが存在しないからこそ、そこに道徳的主体というものが形成されざるをえない…個人が道徳にコミットするのは、道徳的どころか、そもそも「主体」が存在しないからである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 pp. 70f )  個人には「主体」がない。よって、個人は自ら道徳的判断を下すことは出来ない。したがって、道徳的判断を下すためには、社会に判断基準を求めるしかない。 《人々の意見あるいは人々が現に行っていること、この種の「世間」こそが判断の基準となる》(同、 p. 74 ) ということだ。これが判断するための「叩き台」となるのだが、言うまでもなく、これは絶対的なものではない。 《むろん、「世間」にあらかじめ確かな道徳的価値が埋め込まれているわけではない…「確かなもの」はない…「世間の判断」もまた確かなものではなく、それはすぐに変わってしまう》(同)  「世間」は気まぐれなものだから、「世間の判断」も状況次第で一変しかねない頼りないものでしかない。 《主体のアイデンティティなどというものは存在しない…道徳律そのものは人間の自然の内に存在するものではない。それに代わって存在するのは…「同感(シンパシー)」の能力だけであった。そして、この感情(センチメント)のレベルで他者の立場に身をおくという「同感」によって、人は社会的存在であるほかない》(同、 ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(27)正義と自然な美徳

Judges take from a poor man to give to a rich; they bestow on the dissolute the labour of the industrious; and put into the hands of the vicious the means of harming both themselves and others. The whole scheme, however, of law and justice is advantageous to the society; and ’twas with a view to this advantage, that men, by their voluntary conventions, establish’d it. After it is once establish’d by these conventions, it is naturally attended with a strong sentiment of morals; which can proceed from nothing but our sympathy with the interests of society. We need no other explication of that esteem, which attends such of the natural virtues, as have a tendency to the public good. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book III. Part III. Section I (裁判官は、貧乏人から取り上げて金持ちに与え、勤勉な者の労務を放蕩者に与え、悪意ある者の手に自他共に害をなす手段を与える。しかしながら、法と正義の仕組み全体は、社会のためになるものであり、人間が自発的な黙約によってそれを確立したのは、この利益を期待してのことだった。このような黙約によって一度確立されてからは、当然、社会の利益に対する共感以外の何ものでもない強い道徳的感情を伴う。公益性が有る自然な美徳に付随する評価の高さについては、他に説明するまでもない)デイヴィッド・ヒ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(26)道徳的な人間

It must be some one impression, that gives rise to every real idea. But self or person is not any one impression, but that to which our several impressions and ideas are suppos’d to have a reference. If any impression gives rise to the idea of self, that impression must continue invariably the same, thro’ the whole course of our lives; since self is suppos’d to exist after that manner. But there is no impression constant and invariable. Pain and pleasure, grief and joy, passions and sensations succeed each other, and never all exist at the same time. It cannot, therefore, be from any of these impressions, or from any other, that the idea of self is deriv’d; and consequently there is no such idea. – David Hume, A Treatise of Human Nature , Book I. Part IV. Section VI. (あらゆる実在の観念を生み出すのは、ある1つの印象に他ならない。しかし、「自己」や「私」は、ある1つの印象ではなく、我々の幾つかの印象と観念が参照すると考えられているものである。何らかの印象が自己という観念を生じさせるとすれば、その印象は、我々の生涯を通して、常に同じであり続けなければならない。自己とはそのように存在すると考えられるからである。しかし、不変の印象など存在しない。苦痛と快楽、悲しみと喜び、情熱と感覚は、次々継起するが、決し...

アダム・スミス「公平な観察者」について(25)「わたし」は流動的

随分遠回りしたが、話をヒュームに戻そう。 they are nothing but a bundle or collection of different perceptions, which succeed each other with inconceivable rapidity, and are in a perpetual flux and movement – David Hume, A Treatise of Human Nature , BOOK I.: PART IV.: VI. 《人間は、想像を絶する速さで継起し、絶え間なく流動し運動し続けている、様々な知覚の束や集合にすぎない》― ディヴィッド・ヒューム『人性論』:第 1 編 第 4 部 第 6 節  詰まり、「わたし」とは、固定化された確かなものではなく、優れて流動的なものだということだ。 《われわれは、外界からのさまざまな刺激をえ、それを一定の知覚にまとめる。これは次々と継続的に起こることでこの知覚に前もって確かな「自我」というものがあるわけではない。しかし、この次々と生じる知覚の流れが、考えてみれば「わたし」というものなのではないか、こうヒユームは考える。  こうして、変化する外部への知覚が継続することによって知覚は記憶とともに、自己という「同一性」を想定するにすぎない。知覚がある知識を人に与えるのは、ただ経験の強さが与える印象からくる心的インパクトなのである。つまり、経験の中で生じる出来事や印象やらからくる「信念」の強度によるのだ。本質的にはそんな確かなものはアプリオリには存在しない。「わたし」とはせいぜいのところ、「わたし」という名で名指ししている知覚の継続する流れ、つまり「慣習」にすぎないのだ。こうして、確かな主体というアイデンティティがあるのかどうかはいかにも疑わしい》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 pp. 69f ) Our eyes cannot turn in their sockets without varying our perceptions. Our thought is still more variable than our sight; and all our other senses and faculties c...

アダム・スミス「公平な観察者」について(24)デカルトのごまかし

《第3には、疑う者自身の、すなわちこの場合はデカルト自身の「有り方」のことを考えねばならない。ところで懐疑は思惟する人間の1つの根本的な有り方である。そうならば、疑う者自身はそのとき疑いの外に立って「有る」ことはできない。まして、一切を疑うとなると、疑う者自身の「有」は疑いそのもののうちにすっぽり入りこんでしまい、疑いそのものになりきらなければならない。自分の「有る」ということ自体が極点まで疑わしくなり、ここにはじめて一切を疑うということが成立する。デカルトの場合はどうか。この意味での懐疑としてみとめられるのであるか。あるいは言葉だけのものなのであるか。またあるいは外なる対象へ向かうだけにとどまるのであるか》(落合太郎「訳者註解」:デカルト『方法序説』(岩波文庫)、p. 192)  すべてのものを疑うのであれば、「我思う」における「我」も、「思う」ための道具たる「言葉」も疑わざるを得ない。当然、「我思う」ということ自体がまったく疑わしいということになり、「我在る」は導かれない。詰まり、すべてのものを疑えば、何もない「虚無主義」へと落ち込まざるを得ないのだ。 《この問には、デカルトみずから『省察』第2の劈頭(へきとう)、次の言葉をもって答えている。 「昨日の省察(第1省察)によって私は懐疑のうちに投げこまれた。それは私のもはや忘れえないほど大きなものであり、しかもそれをいかなる仕方で解決すべきものであるかを私は知らない。それどころか、あたかも渦まく深淵の中へ不意に落ちこんだように、私は狼狽して、底に足をつけることも、泳いで水面へ抜け出ることもできないほどであった。」 必要にして十分な答であると思う。もとより、かりそめの疑いではなく、また単に対象的な、外へ向けられただけの疑いにとどまるものでもなく、それは極度に推しすすめられた疑いであって、疑う者自身の「有」までも追いつめられていることがわかる。そこには con -jectus sum ともあって、疑う者自身まで懐疑の淵の中にもろともに投げこまれたのである。かつまた、不意に、思いもよらぬかたちで( ex improviso )、とあるとおり、おのれの意志ではどうにもならぬ仕方で.追いたてられた。そうして渦の巻いている淵にとびこんでしまった)(同、 pp. 192f )  ここでデカルトは変調を来(きた...

アダム・スミス「公平な観察者」について(23)「言葉」を疑わないデカルト

《デカルトは一切の懐疑に突入する。一切の意見または知識を根柢からくつがえし、『省察』第2第1段の言葉を借りれば、 「最初の土台から a primis fundamentis」ことごとく新しく、原理を立てなければならぬ。一切を疑うとはどういうことであるか。一切の意見または知識を疑いのうちに引き入れることであろう。言いかえれば一切の意見または知識の真であるかどうかが問われることであろう。しかしこの糺問(きゅうもん)は、意見または知識をば、その真理性について1つ1つ順次に追窮してゆくことではない。これは「際限のない仕事である」ばかりでなく、一切についてその真理性を疑うということがけっきょく成り立ちえないであろう。 それ故に、一切の真理性を疑うことが可能であるならば、それは順次に1つ1つにではなく、一挙にして同時に可能であらねばならない。すべての意見または知識のそれぞれの特殊的内容の相違を超えて、「その真理性については疑わしい」という「一点において合一するような仕方で」疑われなければならない。そうならば、それらの特殊的内容の相違を超えて、それらの意見・知識を異なる意見たらしめ、異なる知識たらしめている「真理そのもの」が疑われるということである。さらに言いかえれば、箇箇(ここ)の意見、箇箇の知識を真なる意見、真なる知識たらしめている「土台(fundamentum)」 が、すなわち「真理そのもの、または真理の本質」が、疑われるのである。 このゆえに、すべての疑われうるものとは、何よりもまず「真理の本質についての懐疑」であるということになる》(落合太郎「訳者註解」:デカルト『方法序説』(岩波文庫)、pp. 190f) 〈箇箇の意見、箇箇の知識を真なる意見、真なる知識たらしめている「土台」〉とは、「言葉」ではないのだろうか。が、「言葉」を疑ってしまっては、真偽を判断することは出来なくなる。すなわち、すべてを疑う、そして、すべての「土台」を疑うと言いながら、「言葉」というある意味最も疑わねばならないものを疑えなかったという矛盾が生じてしまったということだ。 《第2に、一般に「異なる知識」とは何であるか。端的にいえば「有るものが有るがままに知られていること」である。有るものが有るがままに知られていることが、知識を異なる知識たらしめている根柢、すなわち真理の本質である。これを、く...

アダム・スミス「公平な観察者」について(22)デカルトが疑い得なかった「わたし」

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《スミスの友人であったヒユームが的確に述べたように、「わたし」というような確かなものは存在しない。「わたし」とは、ただ、絶えず、世界のさまざまなものを知覚し、経験し、ある種の情念をもち、ということを繰り返している何かにすぎないのであって、あらかじめ、世界(社会)を離れて「わたし」というものが存在するのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 69 )  デカルトは言う。 《いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥(しりぞ)けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。 それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺(あざむ)くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。 また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬(ごびゅう)を犯さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。 最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。 けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。 そうして「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第1原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、 pp. 44f )    が、デカルトは、肝心なところで過ちを犯した。すべてを疑うと言いながら「私」は疑わなかった。勿論、「わたし」を疑ってしまえば、すべては「無...

アダム・スミス「公平な観察者」について(21)佐伯解説への疑問

《われわれは、まずは、自然的欲求から、親や教師や仲間といった、われわれと交際する人達を喜ばせたいと考える。しかし、これはつねに、社会一般の要求と整合するとは限らないだろう。そこで、われわれは、父でも兄弟でも友人でもない「中立的な観察者」をわれわれの心の中に設定する。そしてこの「胸中の偉大な同居人」あるいは「内部の裁判官」に相談するという習慣を身につける。だから、この「内部の裁判官」は身近な誰かではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 67 )  が、裁判とは中立でなければならないから、〈裁判官〉に相談するということは有り得ない。裁判官は、客観的に判断を下さねばならない。 《それは「第三者の場所から、第三者の目をもって見る者」であり、「その第三者というのは、いずれにしても特別のつながりをもたず、われわれの間で中立性をもって判断する者」なのである。この「中立的な第三者」の目をわれわれの内部にもったとき、われわれは道徳原理を手に入れたことになる》(同)  が、〈観察者〉自身が〈裁判官〉よろしく判断を下すというのでは、〈裁判官〉自身が情報を提供する〈観察者〉となってしまい、近代的な裁判とは成り得ないだろう。勿論、 impartial spectator と judge のどちらも自分の内部に存在するのではあるが、たとえ想像上の世界の話とはいえ、それぞれ別人格と架空しなければ客観性が保てない。 《まず注意しておきたいのは、スミスにとっては、たとえばカントが想定したような「確かな主体」としての個人というようなものは存在しないということだ。ここで「確かな」といったのは、自らの内に普遍的な道徳的基準をもち、個人として自立し完結した存在としての個人である。もし、こうした「主体としての個人」が存在すれば、社会とはただ個人の集まりにすぎなくなる。社会とは、「確かな」個人が集まっているだけでもう十分に秩序が保たれるだろう》(同、 p. 68 )  が、カントの道徳論は、環境が捨象された抽象論である。したがって、具体的状況において、何が道徳的なのかは変わってくる。例えば、時代が変われば道徳も変わるだろうし、国が異なれば道徳も異なる。詰まり、具体的状況を踏まえない抽象的道徳論は、現実的には、あまり役に立たないということだ。 《だが、実際にはそう...

アダム・スミス「公平な観察者」について(20)「道徳的な鏡」

《たとえば、われわれは、通常、自分の行動が他人によってどのようにみられるかを多かれ少なかれ気にしている。このときわれわれは、特定の誰それというよりも一般的な他人の目を気にする。つまり、われわれは、多くの場合、「われわれ自身をできるだけ遠くから、他の人々の目をもって見るよう努力する」ものである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 66)  我々は、「世間の目」を気にしながら生きている。が、それが利害関係のある世間では、我々に対する評価が歪(ゆが)んでしまう。適切な評価を期待するためには、世間は、利害関係のない人達、すなわち、出来るだけ遠くにいる人達でなければならない。 《確かに、最初の道徳的批判は、まずは他人の行為に対して向けられる。それもたいていの場合にはきわめて近い親しい者の行為に向けられる。しかし、それは次には、その同じ原理が自分にも適用されることを知り、われわれ自身が他人にどのように映るかを問題とするようになるだろう。これも最初は、親しい者の評価が気になる。だが、社交の範囲が広がり、社会生活が複雑になれば、この「他人の目」は特定の誰かというよりも、それらを抽象し、一般化した「他人の目」になるだろう。このとき、その他人の目は「社会」そのものを代表することになる》(同)  適切な評価を期待し得る「世間」とは、すべての現実の利害関係を削(そ)ぎ落した「抽象的存在」ということになるだろう。 《ここで「中立的な観察者」は「社会的なもの」であるとともに、すでにわれわれ自身の内にいるのである。「われわれが、ある程度、他人の目をもって、われわれ自身の行為の適宜性を熟視することができる唯一の鏡となっている」のである》(同、 pp. 66f )  具象の世界において、利害関係を無くすように「今・此処(ここ)・私」から離れるのに 2 方向ある。宇宙の彼方(かなた)に向けて離れるのが1つ、心の中の深奥に向けて離れるのがもう1つである。が、前者は離れれば離れるほど声は届かなくなる。一方、後者は自分の心の中なので、大きくはないが確かな声を聞くことが出来る。スミス流に言えば、それが「中立的な観察者」ということであり、「良心」ということなのだと思われる。 《ここで、一般化された他者の目は「道徳的な鏡」をつくる。スミスの言い方では、それは「胸中の法廷...

アダム・スミス「公平な観察者」について(19)「偏見なき自分」

《「中立的な観察者」は、具体的な誰かではない。むしろ抽象的存在である。しかしまた同時に、具体的な個々人を離れてその外部にある宙に浮いた抽象でもない。それは、あくまで個々人の内部で実現するような抽象的存在というべきものであろう》 (佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 65)  詰まり、 impartial spectator とは、「偏見なき自分」のことだ。人は誰でも大いに偏見を有している。人間は、偏見を有(も)つことから逃れられないと言ってもよいだろう。だから、「偏見なき自分」などというものは現実的に存在しない。詰まり、 impartial spectator とは、現実には存在し得ない抽象的存在ということになる。が、スミスは抽象論を展開したいわけではない。「全(まった)き偏見なき人間」など存在しないとしても、偏見なきよう努力することは可能である。偏見が無いよう出来得る限り努力することによって、それだけ公平な観察が可能だという意味がこの言葉には籠(こ)められているのだと思われるのである。 《われわれは一方で情念に基づいて行為をするが、他方で、つねにこの「中立的な観察者」をわれわれの内にもっているともいえるだろう。われわれは、確かにカッとしてもはや自制のきかない瞬間をもつこともあるが、その場合でも、たいていは後から後悔するものである。とすれば、いちいち他人によって「観察」され「是認」をもらわなくとも、自らの内にこの観察者をもっているものである。しかも、この良心とでもいうべき内部の観察者は、われわれが教育を受け、育つ社会の中で自然に身につけてゆくものであろう》(同)  これは、ある意味、「性善説」に基づくものとも考えられる。詰まり、自分の中には「良心」( conscience )と言うべき汚れ無き心がある。この良心が impartial spectator となるということだ。 《それゆえ、この観察者は、カントが述べた純粋理性のように、個々人の特性を離れて超越した普遍的なものではなく、あくまで個々人のありようを方向づけているひとつの社会を離れてはありえない。特定の社会の文脈を離れては決して「中立的な観察者」はありえない。と同時に、それは社会そのものを代表したり表象したりするものでもない。「中立的な観察者」は社会の中で形成され、その社会の...

アダム・スミス「公平な観察者」について(18)impartial spectator

《むろん、ここで「見る」といったのは、まさに行為の現場に現に第三者がいなければならないなどということではない。そうではなく、第三者がそこにいようがいまいが、行為の適宜性は第三者の判断によってのみ意味をもつ概念だということである。行為の「適宜性」とは、こうして当事者ではないある第三者の登場によってはじめて判定されることとなる。だが、それではいったいこの場合、第三者とは何者なのだろうか》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 64 )  ここで言う〈第三者〉とは、当事者と利害関係を有(も)たない「客観的な存在」ということである。 《もちろん、文字通りの意味でいえば、第三者とは当事者以外のすべての人なのだから、可能性としていえば、当事者以外のあらゆる者がこの第三者でありうる。私が誰かの食べ物を奪ったとすれば、私と相手以外のすべての者が第三者でありうる。だから極端にいえば、すべての第三者の「同感」の程度をことごとく調査する必要があるともいえよう。だが、むろんこれは無意味なことだ。スミスが述べているのはむろんそんなことではないのであって、この第三者とはただ「利害関心をもたない(インディファレント)」観察者ということなのである。「中立的な観察者(インパーシャル・スペクテイター)」がそれである》(同)  私は、 impartial spectator を多くの先行研究に倣って、「公平な観察者」と訳しているが訳語自体に大差はない。 impartial とは「偏っていない」ということであり、それを「公平」としようが「中立」としようがどちらでも構わない。 《私とも相手とも特別の関係をもたない、もしくはもってはいても、あたかも「中立」であるかのようにふるまう者がこの「中立的な観察者」である。そして適宜性をもった行為とは、この「中立的な観察者」が是認できるような行為なのである。つまり、道徳的に適切な行為とは、中立的な観察者が同感の原理に基づいて是認できるような情念の適宜性、もしくは情念と行為の適切な関係にほかならない。スミスは、この観察者は、情念のレベルでのある種の「中庸」をもった観察者にほかならず、また、行為者には、この種の情念の抑制つまり自己規制が要求されると考えるのである》(同、 pp. 64f )  スミスの言う impartial spect...

アダム・スミス「公平な観察者」について(17)第三者

《ここに全くの他人がいて、彼が私の境遇に身をおいて私の情念をはかり、その行為を評価する。さらに彼は殺害される隣人の境遇にも身をおく。彼は、私でもなく相手でもなく、いわば中立の立場にいる。こうした中立的な「想像上の境遇の交換」の上に立って、彼は私の行為を評価することはできるだろう。彼が私の行為を是認できないと判断すれば、私の行為は不道徳といわねばならないであろう》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 62f)  人の行為が適切か否か( propriety )を判断するためには、ただ外からその人を見ているだけでは駄目で、その人の中に入り込んで、その人が置かれた立場に立ち、その人の行為が適切か否かを判断しなければならない。が、ここに2つ問題がある。1つは、どこまで人は、他人の中に入り込んで他人の立場に立つことが出来るのかということ、もう1つは、どこまで人は、偏見なく判断することが出来るのかということである。  このことは裏を返せば、自分の問題にも当て嵌(は)まる。普段の自分の行動も、どこまで偏見なく自分が置かれた状況を理解し、どこまで偏見なく自分が行動することが出来ているのかということだ。自分に都合の良い立場を架空し、自分に都合の良い判断をし、自己正当化してしまいがちなのが人間の性(さが)というものなのではないか。だとすれば、「相手の立場に立って考える」ということには相当な無理があるということになる。その無理を承知でスミスは持論を展開しているのだ。  スミスは、キリスト教教義とも合理主義的観念論とも異なる地に足の着いた道徳論を模索した。日常を元に、道徳がどのように形成されるのか、その「原理」を探究しようとしたのである。 《まず第1に、ここに私でも隣人でもない第三者が登場していることに注意しておこう。彼は、どちらか一方ではなく、当事者の両者に対して、「想像上の立場の交換」を行うのである。彼は、どちらに対しても特別な利害関係をもたず、それぞれの立場に対して身をおいてみる。「同感」とは、このような想像の上で当事者の立場へ身をおいてみることそのものなのだ。その上で共感できるかどうかによって判定をくだすのはこの第三者なのである。簡単にいえば、AがBに対して何かを行ったとき、その行為が適切かどうかを判定するには、中立的なCがいなければならないのであ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(16)「同感」という言葉

カントに話題が逸(そ)れてしまったので、佐伯氏の解説を再掲する。 《まず「想像上の境遇の交換」が前提としてある。その上で「他人の諸情念を、その対象にとって完全に適合的なものとして是認することは、われわれはそれに完全に同感すると述べるのと等しい」のである。私が飢えているとき、隣人を縛り上げて食べ物を奪うという行為は、決して、先験的に不道徳なのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 pp. 61f )  食べなければ死ぬという状況において、他者の食べ物を奪って食べることは、必ずしも「不正行為」とは言えないのかどうか。似たような事件に、裁判官の山口良忠氏が、敗戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食管法に沿った配給のみを食べ続けたために、栄養失調で餓死した事件があった。死んでも守らなければならない法律など果たして存在するのかという問題だ。法律とは、人々が社会において円滑な生活を営むために守るべき根本規範であるのだから、それを守れば死んでしまうような法律など法律の趣旨に反するということだ。 《「同感」とは「想像の上で他者の境遇に身をおく」ことであるが、ここで次のことに注意しておかねばならない。私が、その行為を対象化して「想像の上で他者の境遇に身をおく」ときには、この「わたし」は、欲望に突き動かされて相手に働きかける「わたし」ではない。ここで「わたし」は、行為する「わたし」をいわば観察しているのである。私は「観察するわたし」と「行為するわたし」に分かれているはずなのである。さもなければ、私が「想像の上で相手の境遇に身をおく」ことはできないだろう。だが、実際にはこれは難しいことである。情念に突き動かされているその瞬間に「行為するわたし」から「観察するわたし」を分離させることなど果たしてできるのだろうか。とすれば実際には、私は、私の行為を道徳的かどうか判断することなどできないだろう》(同、 p. 62 )  少し言葉の問題にこだわってみたい。スミスの言う sympathy とは、 pathy (感情)を sym (共に)するということである。 Longman Dictionary of Contemporary English を引くと3つの定義が見られる。 1. the feeling of being sorry for som...

アダム・スミス「公平な観察者」について(15)先験的とは

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《まず「想像上の境遇の交換」が前提としてある。その上で「他人の諸情念を、その対象にとって完全に適合的なものとして是認することは、われわれはそれに完全に同感すると述べるのと等しい」のである。私が飢えているとき、隣人を縛り上げて食べ物を奪うという行為は、決して、先験的に不道徳なのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 61f)  〈先験的〉とは、「経験に先んじて」ということであるが、イマヌエル=カントはこの言葉を用いて、深遠な学説を唱えているので、その触りの部分を見ておこう。 《空間・時間において直観される一切のものは、あくまでわれわれに経験される「現象」であって、それ自体存在するもの(=物自体)ではない。およそわれわれが表象する対象は、延長をもった「物」、あるいはなんらかの変化の系列であり、われわれの経験の向こうにそれ自体存在しているもの(物自体)ではないのだ。  人間は、ただその感性形式を通して“現れてきた”対象しか、表象したり、認識したり、経験することはできない。そしてその原因となる「物自体」は、われわれには決して経験されないものとしてとどまっている。この学説を私は「先験的観念論」と名づける。また、これを形式的観念論と呼んで、実質的観念論――実在それ自体を疑い否定する経験的観念論――と区別してもよい。  ところが実在論者は、この「現象」にすぎないものを、物自体と考える。つまり、実在物=物自体と考える。また、われわれの先験的観念論の立場は、経験的観念論(⇒存在物の現実存在それ自体を疑い否定するバークリー、ヒュームなどの経験論)とも同じものではない。  先験的観念論は「現象」の実在を否定はしないが、それがあくまで人間の経験にとっての「現象」であり、「対象それ自体」として実在するものではないことを主張する。さらにまた、われわれに与えられる「心」(心意識)のありようも、あくまで「現象」であると主張する。  たとえば「月に生き物がいるかもしれない」ということは、かつて誰もそれを見たことがないとしても、経験の可能性としてはありうることだから、これを絶対的に拒否することはできない。しかし言うまでもないが、そういったことはあくまでわれわれの経験の可能性の枠内のことであって、「物自体」としての問題ではない。  要するに、われわ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(14)想像によって自分を相手の境遇に置く

《ある行為の適宜性を判定するのは、想像上において相手の立場に身をおくところからでてくる判断にほかならない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 61) 私達の想像力が写し取るのは、他人の感覚ではなく、私達自身の感覚の印象でしかない。想像力によって、私達は自分自身を彼の境遇に置き、自分が同じ苦痛に耐えているのを思い浮かべ、あたかも他人の体の中に入り込み、他人と同じ人間になり、そこから他人の感覚をいくらか思い浮かべ、程度は弱くとも、まったく似ていないわけではない何かを感じさえするのである。こうして他人の苦悩が私達自身に齎(もたら)され、私達がそれを取り入れ、自分のものとしたとき、他人の苦悩はついに私達に影響を及ぼし始め、そのとき私達は、他人が感じていることを想像して震え上がる。どのような種類の苦痛や苦悩の中にいても、最も過大な悲しみが沸き起こるように、自分がその中にいると考えたり想像したりすることも、その考えが生き生きとしたものか、ぼんやりとしたものかに応じて、ある程度同じ感情を沸き起こらせるのである。 これが他人の不幸に対する共感の源であり、苦しんでいる人と空想の中で立場を変えることによって、その人が感じていることを想像したり、心を動かされたりするようになるということは、それ自体では十分に明らかだとは思われないにしても、多くの明白な観察によって実証され得ることである。―アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ(2)想像力( imagination )  相手の行為の適宜( propriety )を判断するためには、相手の立場になって考えることが必要だ。ここで問うているのは、相手が置かれた状況において、その行為が適切か否かということであって、例えば、道徳的に正しいか否かというようなことではない。 《「同感」とは想像の上で他者の境遇に身をおき、その上で他者の情念を自らのそれと引き比べてみる能力である》(同) 私達は、2つの異なる動機に基づいて、他人の感情が自分の感情と一致するかどうかによって、その感情が適切であるかどうかを判断できる。1つは、感情を沸き起こす動機が、自分にも、その感情を判断する相手にも、特別な関係がないと考えられる場合、もう1つは、その感情が私達のどちらかに特別な影響を及ぼすと考えられる場合である。―アダム・スミス『道...

アダム・スミス「公平な観察者」について(13)アダム・スミスの試み

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《『道徳感情論』においてスミスが試みたことは、一言でいえば、道徳性の基礎を、人間の自然な感情から導き出すことであった。これは、当時の通俗的な見解、ひとつは、道徳をキリスト教という絶対的倫理から導くというやり方とも、また道徳の基礎を、人間理性に求める啓蒙主義的な思考とも異なるもので、これらと対比させてみれば、相当にユニークでかつ斬新的な試みであったといってよいだろう》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)』(PHP新書)、 p. 60 )  時は、宗教的観念の中に位置付けられてきた道徳が、啓蒙主義によって新たな観念の世界に組み込まれようとしていた時代であった。そこでスミスは、道徳を観念の世界から救うべく『道徳感情論』を上梓(じょうし)したのであった。  スミスの問題意識は、 《果たして、ある行為が正しいとされ、またある行為は間違いだとされるその根拠はどこにあるのだろうか。つまり道徳の「一般的規則」はどこから発生するのだろうか》(同) というものであった。 《あらゆる行為は通常それなりの動機をもち、またその対象あるいは帰結に対して一定の関係をもっているだろう。端的にいえば、行為には動機と結果がある。そこで行為の動機をうみだすものを「情念」だとすれば、ここで問題となるのは、行為をうみだす情念と、行為の帰結との間の関係だということになる。そして、この関係がうまくいっているかどうかを指す概念がとりあえずは「適宜性」(propriety)にほかならない》(同、p. 61) It has already been observed, that the sentiment or affection of the heart, from which any action proceeds, and upon which its whole virtue or vice depends, may be considered under two different aspects, or in two different relations: first, in relation to the cause or object which excites it; and, secondly, in relation to the end w...

アダム・スミス「公平な観察者」について(12)良心という名の判断基準

《大事な点は、道徳的な善悪基準は「世間次第」で、「世間が道徳を決める」ということです。自分の行動が正しいか、間違っているかは自分で判断できるということはないわけです。  ここを勘違いしてしまうと「結局自分で判断すればいいので、自分がいいと思うことは、何でもやっていい」となってしまいます》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、 p. 70 )  このような言い方をすれば、道徳を決めるのは世間であって自分ではないかのように聞こえるが、そうではない。世間には自分も含まれる。が、注意すべきは道徳を決める世間とは、自分の周りといった「狭い社会」ではなく、空間的そして時間的に広がりのある「広い社会」を指すと考えなければならない。 《スミスが考えたことは、自分が属する社会から「自分の中の裁判官」を形作るということ。あくまでも判断基準は「自分」ではなく「社会」なのです》(同)  これももう少し丁寧に言わなければ誤解を招くだろう。 如何に強い自己愛の衝動であっても、それをこのように妨げることが出来るのは、思いやりという柔らかな力でも、造物主が人間の心に灯(とも)した弱々しい博愛の火花でもない。このような場面で力を発揮するのは、もっと強い力であり、もっと力強い動機である。それは理性であり、原理であり、良心であり、胸中の住人であり、内部の人間であり、自分の行動の偉大な裁判官であり、調停者である。他人の幸福に影響を及ぼすような行動をとろうとするときにはいつでも、自分の感情の中で最も厚かましい感情を驚かせることのできる声で、自分は大勢の中の1人に過ぎず、その中で他の誰よりも優れている点など何1つないのだ、そして、とても恥ずかしくも、そしてとても闇雲(やみくも)に他者よりも自分を優先すれば、自分が怨恨、嫌悪、非難の対象になるということを自分に呼びかけるのが、この人なのである。(アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ( 56 )偉大な裁判官と調停者 )  自分の中の法廷における判断基準は、「自分」でもなく「社会」でもなく、自らの「良心」( conscience )ということだ。 《アダム・スミスが一番主張したかったのは、善悪の判断は自分で決めることはできないということです。何が正しくて、何が間違っているかを決める...

アダム・スミス「公平な観察者」について(11)原則の影響力

When these general rules, indeed, have been formed, when they are universally acknowledged and established, by the concurring sentiments of mankind, we frequently appeal to them as to the standards of judgment, in debating concerning the degree of praise or blame that is due to certain actions of a complicated and dubious nature. They are upon these occasions commonly cited as the ultimate foundations of what is just and unjust in human conduct; and this circumstance seems to have misled several very eminent authors, to draw up their systems in such a manner, as if they had supposed that the original judgments of mankind with regard to right and wrong, were formed like the decisions of a court of judicatory, by considering first the general rule, and then, secondly, whether the particular action under consideration fell properly within its comprehension. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《実際、このような原則が形成され、人類の感情が一致して、普(あまね)く承認され、確立されている場合は、複雑で疑わしい性質を有(も)つ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(10)原則の形成

To the man who first saw an inhuman murder, committed from avarice, envy, or unjust resentment, and upon one too that loved and trusted the murderer, who beheld the last agonies of the dying person, who heard him, with his expiring breath, complain more of the perfidy and ingratitude of his false friend, than of the violence which had been done to him, there could be no occasion, in order to conceive how horrible such an action was, that he should reflect, that one of the most sacred rules of conduct was what prohibited the taking away the life of an innocent person, that this was a plain violation of that rule, and consequently a very blamable action. –Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《強欲・妬み・不当な恨みから、犯人を愛し信頼していた人が冷酷にも殺されるのを初めて見、死に瀕する人の最後の苦しみを目の当たりにし、息絶え絶えの人が自分に加えられた暴力よりも、不実の友人の裏切り忘恩を訴えるのを聞いた人にとって、このような行為がいかに恐ろしいものであるかを想像するために、最も神聖な行為規範の1つが、罪のない人の命を奪うことを禁止するものであることであり、この行為はその規範に明白に反するが故に、まさに非難されるべき行為であるということを、反省する機会はないだろう》 ―アダム・スミス『道徳感情論』第 3 部 第 4 章 His ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(9)原則(general rule)

Some of their actions shock all our natural sentiments. We hear every body about us express the like detestation against them. This still further confirms, and even exasperates our natural sense of their deformity. It satisfies us that we view them in the proper light, when we see other people view them in the same light. We resolve never to be guilty of the like, nor ever, upon any account, to render ourselves in this manner the objects of universal disapprobation. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments : Part III: Cap. IV 《彼らの行動の中には、私達を不快にさせるものも勿論ある。彼らに対し、周りの誰もが同じような嫌悪を口にしているのを耳にする。このことは、私達が彼らをおぞましく感じたのは当然だと一層裏付けてくれて、さらに不快感は増す。他人が同じような見方をしているのを見ると、自分が彼らを適切な見方で見ているのだと納得する。自分は、決して同じことは犯すまい、如何なる理由があろうとも、自分はこのように全員の非難の的とはなるまいと心に誓うのである》 ―アダム・スミス『道徳感情論』第 3 部 第 4 章 We thus naturally lay down to ourselves a general rule, that all such actions are to be avoided, as tending to render us odious, contemptible, or punishable, the objects of all those sentiments for which we have the gre...

アダム・スミス「公平な観察者」について(8)「正しい」ということ

《昔は「善」とされていたものでも、いまでは「間違っている」こともあります。奴隷制度や人身売買が普通に行われていた中世を考えれば、善悪の基準が移り変わってきたことが分かるでしょう。現在「正しい」とされていることは、なぜ「正しい」のか? それは「世間が正しいと考えているから」にほかならないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 68)  成程、スミスは次のように言っている。 The different situations of different ages and countries are apt … to give different characters to the generality of those who live in them, and their sentiments concerning the particular degree of each quality, that is either blamable or praise-worthy, vary, according to that degree which is usual in their own country, and in their own times. - Adam Smith, The Theory of moral sentiments : Part V Of the Influence of Custom and Fashion upon the Sentiments of Moral Approbation and Disapprobation Consisting of One Section: Chap. II Of the Influence of Custom and Fashion upon Moral Sentiments 《時代や国が異なれば状況も異なり、そこで暮らす大部分の人々の性格も異なってくるのであって、非難すべきか、称賛に値するか、性質毎の詳細な程度に関する感情は、自分が暮らすの国や時代で通常である程度に応じて変わってくる》―アダム・スミス『道徳感情論』第5部 道徳的称賛と非難の感情に及ぼす習慣と流行の影響について:第2章 道徳感情に及ぼす習慣と流行の影響について...

アダム・スミス「公平な観察者」について(7)世間の声は正しい?

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《自分独りで生活している時に、自分の顔の善し悪しを判断できないのと同じように、自分の行動が道徳的に正しいか、間違っているかは分からないのです。「他人からの評価」を聞いて初めて、自分の行いの善悪を判断できるのです。つまり、自分の行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だということです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 66)  行動の正邪は相対的な評価なので、自分独りで生活しているときは、判断できないというよりも、そもそも判断する必要がない。判断が必要となるのは、社会的評価が気になるときである。ここで、〈行動の是非を決めるのは自分ではなく、他人の評価だ〉と木暮氏は言うのであるが、果たしてそうか。 《他人(世間)は気まぐれな評価をすることがあります。しかし、全体的に・長い目で考えると、そういう人は一部分で、大多数の人は「正しい評価」をしてくれます。  つまり「世間の声」は、「通常は正しい」のです》(同) というのは世間知らずの阿呆というものであろう。木暮氏が何をもって「正しい」と考えているのか分からないが、世間が正しいなどという話は断じて受け入れられない。 《孤立していたときには、恐らく教義のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。原始人のような、自然さと激しさと凶暴さを具(そな)え、また熱狂的な行動や英雄的な行動に出る。言葉や心象によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に煽動されやすい点からも、さらにいっそう原始人に近いのである。群衆中の個人とは、あたかも風のまにまに吹きまくられる砂粒のなかの一粒のようなものだ》(ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、 pp. 35f )  世間の判断は、正しいか否かで見るべきものではない。世間の判断を黙って受け入れるのか、それに反発するのか、それとも無視を決め込むのか対応が分かれるだけである。世間が正しいなどということを前提にすれば、如何に理不尽なことが突き付けられようとも、世間に反発するのはただの反逆者だということになってしまう。それでは自らの精神の平衡を保てない。 《ただ、「通常は正しい」というより、「正しいのは世間」と考えた方がいいかもしれ...

アダム・スミス「公平な観察者」について(6)「良心」という名の「裁判官」

《人間は自分の中に作った「裁判官」の判断に従って、自分の行動の善悪を判断するようになります。ただし、「社会からどう思われるか」を知るために、且分の中に評価を下す人を作るわけですから、その「裁判官」の判断基準は、社会と同じでなければいけません。「裁判官」自体は、自分の中に作りますが、裁判官が持っている「法律(判断基準)」は世間の声をもとに創らないといけないのです》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、pp. 63f)  が、この「裁判官」は、自分の中に人工的に作るようなものではなく、自生的に成長する自然な存在であろう。 人間はこのようにして、人類の直接的な審判者とされたとはいえ、そうされたのは第一審でしかなく、その判決から、ずっと高次の法廷に、すなわち自分自身の良心の法廷に、公平で十分な情報を持つと思われる観察者の法廷に、そして自分たちの行為の偉大な裁判官であり裁定者である胸中の人類の法廷に、上訴できるのである。この2つの法廷の管轄権は、ある点では類似し、同種のものであるけれども、現実には異なった別個の原理に基づいている。  外部の人間の裁判権は、現実の称賛を望み、現実の非難を嫌うことにまったく基づいている。内部の人間の裁判権は、称賛に値することを望み、非難に値することを嫌うことに、他人を愛し称賛するような資質を有(も)ち、そのような行動をしたいという望み、他人の中で私達が憎み、軽蔑するような資質を有ち、そのような行動をすることを怖れることにまったく基づいている。 (アダム・スミス『道徳感情論』: 拙ブログ( 48 )2つの裁判権 ) 《そのため人は、自分が生きている社会が一般的に何を「善」として、何を批難するかを考えます。というより、生活のなかで「世間の判断基準」を見つけ、集めていきます。つまり、自分が社会と関わっていく中で、「この社会での一般的な判断基準」を見つけて、それを「法律」として「自分の中の裁判官」が吸収していくわけです。それが「道徳規準」になるのです》(同、 p. 64 )  が、〈高次の法廷〉とはそのようなものではないだろう。人は、世間が下した〈第一審〉判決に不服な場合、心の中にある〈高次の法廷〉に上訴する。自らの「良心」( conscience )の判断基準は、必ずしも世間...