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オークショット「政治教育」(2)政治的イデオロギー

純経験的活動として政治を理解することは、そもそも具体的な活動様態を、把(とら)えそこなっているゆえに、十全なものではない。それにそれは、往々にして不幸な結果をまねくような、あるスタイルでの社会の整序化への関与を追求するように、無思慮な人を導くという、附随的な欠点ももっている。もともと不可能なことをしようとするのは、破産的な企てと決っている(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 133)  政治とは、単なる<経験的活動>ではない。にもかかわらず、政治を<純経験的活動>だと思い込んでしまえば、その活動を価値付けるための何らかの<スタイル>が必要となる。 この政治理解に欠けているものとは、経験主義を実際に働かせるようにできるもの、科学においてちょうど個々の仮説にあたるようなもの、単なるその場その場の欲望よりも広い射程をもつような追求目標に他ならないことが、知られるだろう。またこれは、単に経験主義のよき相棒にとどまるものではなく、それなくしては、経験主義がまったく機能し得なくなるものであることが、見て取られるはずである。(同、 p. 134 )  経験主義的活動が<混沌>に陥らぬためには、諸々の活動を秩序付けなければならない。その枠組みの1つが「イデオロギー」と呼ばれるものである。 政治が自己運動的な活動様式として現象するのは、経験主義にイデオロギー的活動が先行し、それによって先導される場合である…私はただ、政治的イデオロギーが、経験主義(やりたいことをなすこと)にとって不可欠な要素として加えられた時、はじめて自己運動的な活動様式が現われ、従って、これこそ原理的に十全な政治活動の理解と見なされ得るのだ、という主張を問題にするだけである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、 p. 134 )  様々な具体的活動が寄り集まって社会が変化し、秩序が更新されるというのではなく、秩序体系は予(あらかじ)め決められており、これに合わせて具体的活動が意味付けられ、制約される。これではおかしくはないかということである。 政治的イデオロギーとは、ある抽象的な原理または諸原理の関連せる組合せを意味し、あらかじめ個々の経験から独立に考案されたものである。それは、社会を整序することに関わる行動に先んじて、追求されるべき目的を...

オークショット「政治教育」(1) 経験的活動として政治

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いかなる世代でも、その最も革命的な世代においてすら、成立している秩序は意識されるべきものをいつもはるかに越えているのであり、とってかわり得る新秩序などは、手直しを受けて維持されるものと比べて、わずかしかないのだ。新しいものは、全体の内のとるに足らぬ割合しか占めていない(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 130)  革命だなどと大仰(おおぎょう)に言ったところで、意識的に変更できるものなど限られている。社会の秩序は、意識出来るものを遥かに超えた要因が複雑に絡み合って成り立っているのであって、革命と言っても社会の上辺を変更するにとどまり、根本は変えられない。  ある人々の理解では、政治とはある経験的な活動と呼ばれるものである。社会の整序化に関わることは、毎朝目をさまし、「私は何をしたいのか?」とか「誰か他の者(私が喜ばせようと望む人)は、何をされたいか?」と自問し、ただそれをすることである。政治的活動についてのこの理解は、政策なき政治と言い得るかもしれない。(同、 p. 132 )  <経験的>( empirical )とは「刹那的」ということである。詰まり、そこには未来に対する展望もなければ、過去に対する省察もない。ただ、日常的な問題に対し場当たり的に「反応」しているだけである。 ごく簡単な考察だけでも、それは具体化の難しい政治の概念であることが明らかになろう。それは、そもそも可能な活動様式とも見えないのである。しかし、これに似たアプローチは、おそらくよく知られた東洋の専制君主の政治や、あるいは落書き屋や買収屋の政治になら、見出すことができる。しかし、その結果は、気まぐれに取り入る以外には何も一貫したことのない、混沌(こんとん)でしかないと思われる。(同)  活動の視点が「今」にしかない。そこには「時間」の観念がない。だから物事が時間軸によって整序されない。過去からの積み重ねもなければ、未来への応用発展もない。だから<混沌>状態に陥ってしまうのである。 純粋に経験的な行動として政治を理解することは、それを誤解することである、なぜなら、経験主義はそれ自身、そもそも何ら具体的な活動様式ではなく、それが具体的活動様式での手助けになり得るのは、それが他の何かと――例えば科学でなら仮説と――結合される場合だ...

オークショット「合理的行動」(14)【最終】活動の整合性

It is commonly believed (as we have seen) that there is something pre-eminently 'rational' in conduct which springs (or appears to spring) from the independent premeditation of a purpose or a role of behaviour, and that it is 'rational' on account of the antecedent process of premeditation and on account of the success with which the purpose is achieved. And if we were to accept this view it would appear that moral conduct would be pre-eminently 'rational' when it was being treated for a diseased condition. -- Michael Oakeshott, Rational conduct : NINE (行動の目的や役割を独立に前もって熟考することから生まれる(あるいは生まれるように見える)行動には、極めて「合理的」なものがあり、予謀の先行過程のゆえに、そして目的が達成される成功のゆえに「合理的」であると(これまで見てきたように)一般に信じられている。そしてもし、この考え方を受け入れるなら、道徳的な行為は、病状の治療を受けているとき、極めて「合理的」であるかのように見えるだろう)  「合理的」( rational )というよりも「合理主義的」( rationalistic )と言った方が分り易いのではないだろうか。合理主義者の言う「合理的」とは、理に適(かな)うという意味というよりも、合理主義の考え方に沿ったという意味のように思われるからである。 But even this is rather more than may properly be concluded; the most that may, in...

オークショット「合理的行動」(13) 知識への忠実さ

行動に関して「合理的」という言葉を用いる唯一重要な方法は、我々がそれを用いようとするときに活動それ自体の特質ないし特性(おそらく、望ましい特質ないし特性)を指し示すことである、ということが認められるならば、当該特質とは単に「知性」だけでなく、我々の従事する特別な活動を行う方法に関して我々が持っている知識への忠実さのことでもあると思われるであろう。「合理的」な行動とは、その行動が属する活動のイディオムの整合性が保持されかつ可能な限り高められるような仕方で行為することである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 116-117)  <我々が持っている知識>とは、「知性」のみならず、経験から得られた「実践知」をも含めた総合的な知識のことを指しているに違いない。言い換えれば、伝統や慣習といった定式化されてはいない「暗黙の了解」に棹差すということである。 もちろん、これは活動の(発見されたとしてもごくわずかの)原理・ルール・目的への忠実さとは異なった何かである。原理・ルール・目的は、活動の整合性の単なる要約であり、我々は活動それ自体との接触を失うとしても、これらに忠実であることは容易である。また、「合理性」を特徴づける忠実さは、確立され完成された何かへの忠実さではない(というのも、活動を行う方法に関する知識は常に変動しているからである)。つまり、活動の整合性に自ら貢献する(単にこれを説明するだけではない)ことが忠実さというものなのである。(同、 p. 117 )  <確立され完成された何か>ではなく、定式化されてはいないが、柔軟で流動的な知識を大切にする姿勢、それこそが<知識への忠実>というものなのだろう。 この見解は次のような含意を持っている。第1に、いかなる行動・行為・一連の行為といえども、それらが属する活動のイディオムと無関係に「合理的」ないし「不合理的」であることはできない。第2に、「合理性」とは常に前方にある何かであって後方にある何かではない。しかし、それは望ましい結果ないし予(あらかじ)め考えられた目的の達成に成功するということではない。第3に、活動のイディオムのすべてが単一分野の活動に包含されていると考えないならば、ある活動全体(たとえば、科学、料理、歴史研究、政治、詩など)について「合理的」だとか「不合理的」だとか言うことはできな...

オークショット「合理的行動」(12)<実践知>の欠けた「正解」

All actual conduct, all specific activity springs up within an already existing idiom of activity. And by an 'idiom of activity' I mean a knowledge of how to behave appropriately in the circumstances. – Michael Oakeshott, Rational conduct : seven (すべての実際の行動、すべての具体的な活動は、既存の活動の様式内で生まれてくる。そして、「活動の様式」とは、現場での適切な振る舞い方についての知識を意味する)  観念の世界において、人はいかに行動すべきかを抽象的に考えるのではなく、実際の現場では、慣習的道徳や倫理に沿ってどのように振る舞うべきかが選択されるということである。 Scientific activity is the exploration of the knowledge scientists have of how to go about asking and answering scientific questions; moral activity is the exploration of the knowledge we have of how to behave well. The questions and the problems in each case spring from the knowledge we have of how to solve them, spring from the activity itself. – Ibid. (科学的活動とは、科学的な問いを立て、それに答えるために、科学者が持っている知識を探求することであり、道徳的活動とは、善く振る舞うために、我々が持っている知識を探求することである。各事案の問題は、それの解決法について我々が持っている知識から生まれ、活動自体から生まれる) And we come to penetrate an idiom of activity in no other way than by practisi...

オークショット「合理的行動」(11) ケインズの反省

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J・M・ケインズは言う。 《われわれの一般的な心の状態の原因でもあり、またその結果として、われわれは、われわれ自身の人間性をも含めて、人間の本性というものを完全に誤解していた。われわれが人間の本性に合理性を帰したために、判断ばかりか、感情の浅薄さをも招いたのである。知性の面で、われわれはフロイト主義者以前であったというに留まらない。われわれは先人たちの有していたものを、代りのものと取り替えないまま、失ってしまった》(「若き日の信条」:『ケインズ全集 10 人物評伝』(東洋経済新報社)大野忠男訳、 p. 584 )  人間が営々と築いてきた文化文明は、決して<合理的>なものではない。不合理なものが綯(な)い交ぜになった文化であり文明なのである。だから、ただ不合理だからと言って削ぎ落してしまえば、文化文明もやせ細ってしまわざるを得ないのである。 《私は今でも、他人の感情と行動(そしてまた、疑いもなく私自身のそれ)に、非現実的な合理性を認めようとする性癖から抜け切れないでいる。「正常な」ものについてのこの不条理な考えの現われとして、ささやかだが、途方もなくはかげた1つの例がある。すなわち、異議を申し立てるという衝動がそれであって、「正常な」ものについての私の前提が満たされていないと、『タイムズ』紙に手紙を寄せて、ロンドン市庁舎で会合を開き、何かの基金に寄付をしたいという衝動なのである。あたかも声を大にして叫びさえすれば、首尾よく訴えることのできる何かの権威なり基準なりが現に存在するかのように、私は振舞うのだ。――おそらく、お祈りの効能への、遺伝的な信仰の名残といえよう》(同)  <実践知>を伴わず、<技術知>が現実を踏まえぬ観念の世界の中で暴走してしまうということである。 私は人間性に関するこの偽の合理的な見解が、判断ばかりか感情においても軽薄さ、皮相さ、を招いたと言った。ムーアの「理想」に関する章には、あるカテゴリーの、価値ある感情全体がまったく脱落していたように私には思われる。人間の本性を合理的なものと見なしたことは、今にして思えば、人間性を豊かにするどころか、むしろ不毛なものにしたようである。それはある強力で価値ある、感情の源泉を無視していた。自発的な、不合理な、人間本性の噴出のあるものには、われわれの図式主義とは無縁な、ある種の価値がありうる。...

オークショット「合理的行動」(10) 合理性の魅力

確実性――信念と行動の諸問題に関しての――への激しい欲求があった。それは次のような確信と結びついてしまった。すなわち、確実性はただ我々に「与え」られた何かに関してのみ可能となるのであって、我々が確かめた何かに関してではない、つまり確実性は恩寵(おんちょう)という贈物であって、労働の報酬ではない、という確信である。確実性は、おそらく我々が出発点としなければならないものであるに違いない。活動とは無関係の命題的知識だけがそれを提供するように思われる。この種の誤謬(ごびゅう)なき確実性への切望は、思うに、知的誠実さへの欲求ほど信用のおけるものではない。確かに、道具としての精神はいくつかの点で魔術信仰の遺物だとみなされてもよいと、私は思う。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 106)  不確実なものを削ぎ落し排除したものが合理的なものとなるのだから、合理的なものは確実なものとなる。この絡繰(からく)りによる<確実性>が<合理性>の魅力なのである。 多くの生活領域、特に政治においては、物事への取り組み方がますます分からなくなっており、「新しい」と思われるがゆえに素早い処理手段が我々に準備できていない状況がよく生じるようになった。政治の場においていかに行為すべきかを知らないとき、人はこの種の知識の価値と必要性をけなし、活動に先立って知る能力を賦与されていると想定されている、自由で開放的な精神の価値と必要性を誉める傾向があるだろう。(同)  生活そして社会が複雑になるにつれて、政治課題も複雑化する。従来の手法では問題を解決することが出来ず、解決に要する時間も長くなりがちある。これに対し、<合理主義>は物事を単純明快に処理していくわけであるから人々の目には魅力的に映るわけである。  が、不合理なものを削ぎ落し、単純化するからこそ問題を<合理的>に処理することが出来るのであって、削ぎ落された問題は山となり放置されるだけである。が、単純化し<合理的>に処理しようとしたことが必ずしもちゃんと処理できる保証はない。不合理なものをすべて削ぎ落せば、人間的なものは残らないからである。 彼が「合理的」な行動だとするものが実際に不可能なのは、それが「異常で不合理な、大部分の人の内部にある邪悪さの根源」によって圧倒されやすいからではなく、人間行動の性質に関する不実表示...

オークショット「合理的行動」(9) <知的誠実さ>の意味の変更

これら(=活動に関する諸命題など)は教えることはできるが、教師から学びうる唯一の事柄ではない。経験を積んだ科学者ないし職人と一緒に仕事をすることは、そのルールを学びとるだけでなく、どのように彼が仕事に着手するかについての直々(じきじき)の知識(とりわけ、何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)を得る、1つの機会なのである。これが獲得されない間は、たいへん価値のある事柄でさえも学びとったことにはならない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、 p. 105 )  詰まり、オークショット流に言えば、知識には「技術知」と「実践知」の2つあり、定式化可能な「技術知」だけを手に入れただけでは、本当の意味で知識を身に付けたことにはならないということである。 しかし、我々がこれ(=何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)をルールそのものの学習と比較して重要でないと考えるとき、あるいはそれを本当の意味での教授ではない、つまり正式には知識ではないと拒否するときにのみ、ある活動を学習するということの性格が、活動それ自体はそれに関する別途に予め考えられた諸命題から生じうるのだという見解を支えているように思われる(同)  <実践知>を拒否排除し、<技術知>を詰め込むことこそが合理的学習なのである。 精神的誠実さ、公平無私、そして偏見の不在が最高価値を有する知的徳目である、という称賛に値する確信があった。しかし、この確信は不幸にも奇妙な精神混乱に陥り、公平さは完全に自律的な精神――すなわち既得の性向を欠いている精神――にのみ可能であるという信念と結びついてしまった。(同、 p. 106 )  従来の公平の基準は、歴史の英知の中にあった。言い換えれば、自分を越えたところにあった。それが合理主義の波に押し流されしまい、自意識が肥大化する中で、自らが差配できるものへと相対的に矮小(わいしょう)化されてしまったのである。 知的誠実さを重んじると同時に、その知的誠実さを「正直」であろうと特別に決意した活動と同一視すること、そして知的誠実さを1つの既得の技能(これについてはそれぞれその適切な状況に応じた様々のイディオムがある)として認めることは、この不幸な「合理性」という理想への第一歩なのである。(同)  予め特定された目的に向けて、予め決められ...

オークショット「合理的行動」(8) 合理的とは機械的

英語の rational は、例えば、Oxford Advanced Learners’ Dictionary によれば、 able to think clearly and make decisions based on reason rather than emotions (感情よりもむしろ理性に基づいて明瞭に考え、決断することが出来る) のように定義されている。一方、日本語の「合理的」とは「理に適っている」ということであるが、「理」は論理、道理、摂理といったものに細分化され、さらに摂理にも自然の摂理もあれば神の摂理もあるといった具合である。詰まり、「理に適っている」という意味の「合理的」という日本語の感覚で  rational  を見るのは誤解の元なのではないかということだ。 もし「合理性」が活動の望ましい特質を表すとしても、それは活動が始まる前にその活動について予(あらかじ)め別途に考えられた諸命題を持っているという特質ではあり得ない。また、このことは、他のどんな種類の命題にもあてはまるように、活動の目的ないし目標に関する諸命題にもあてはまる。ある活動の目的が予め明確に決定されていることを理由に、またそれが他のすべての目的を除いてその目的だけを達成することに関して、その活動を「合理的」だと呼ぶことは誤りである。なぜなら、実際のところ活動それ自体に先立って活動目的を決定する方法などないからである。仮にそうした方法があったとしても、活動の根源は依然としてその目的を追求する際にいかに行為すべきかを知っていることにあるのであって、単に追求されるべき目的をすでに定式化しているという事実にあるわけではない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、 p. 104 )  「合理的」などと飾らずに、むしろ「機械的」と言った方が分り易くはないか。言うまでもなく、機械は言われた通りに粛々(しゅくしゅく)と作業をこなす。予め決められた目的にむけて、決められた工程を進める。これを人間が行うとすれば、まさに「機械人間」である。 我々は、ある活動がその活動に関する諸命題を予め考えておくことから生じうると想定することは不自然である、ということに同意するかもしれない。しかし、ある活動を教えるためには、それに関する我々の知識を一組の諸命題――言語...

オークショット「合理的行動」(7)合理的理論は唯の抽象論

あれこれの特質は獲得されたものではない。それらは精神を組成する要素なのである。人間の精神からあれこれの特質を消滅させてみれば、人間の「知識」(ないしその一部)だけでなく、精神それ自体も消滅してしまうだろう。後に残るのは中立で公正な道具つまり純粋な知性ではなく、完全な無である。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 103)  例えば、「慣習」は、合理的か否かの検閲を受けておらず、本来の<精神>を歪(ゆが)めるものである可能性が高いからという理由で、これを取り除こうとするのは愚行である。「慣習」を身に付け、これに従うことによって、我々は行動に要する負担を軽減することが出来る。にもかかわらず、「慣習」を否定してしまっては、行動するに当たって、様々な社会的軋轢(あつれき)を想定し、損得計算を行わなければならず、この作業が山のように積み重なっては日常生活を送ることが出来なくなってしまうだろう。 The whole notion of the mind as an apparatus for thinking is, I believe, an error; and it is the error at the root of this particular view of the nature of 'rationality' in conduct. Remove that, and the whole conception collapses. –- Michael Oakeshott, Rational conduct (精神は考えるための装置だという概念全体が誤りなのだと思う。それは、行動における「合理性」の本質についてのこの特別な見解の根底にある誤りである。この誤りを取り除けば、概念全体が崩壊する) it is an error to suppose that conduct could ever have its spring in the sort of activity which is misdescribed by hypostatizing a 'mind' of this sort; that is, from the power of considering abstract proposi...

オークショット「合理的行動」(6)頭の中で作り上げた空想

人間行為についての誤った理論であり誤った記述であるがゆえに、その理論に適する明確で偽りのない行為事例を示すことができない…実際に不可能なのである。人々はこのようには行為しない。なぜなら、そうすることができないからである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 101)  理論通りに合理的に行動することなど不可能だということである。 確かに、この理論を考えた者たちは、自分たちが可能な行為形態を記述しているのだと思っていた。そして、それを「合理的」だと称して、彼らはそれを望ましいものとして推奨したのである。しかし彼らは勘違いしていたのである。また、疑いなく、この理論が通用する場合にはいつでも、行為はその理論が示唆するパターンと合致する傾向があるだろう。しかし、それはうまく行かないであろう。誤った理論が実際に孕(はら)んでいる危険は、その理論のために人々が望ましくない仕方で行為するようになるということではなく、それによって活動が誤れる方向へと惑わされ攪乱(かくらん)されるということである。(同、pp. 101-102)  人間は機械ではない。脳内を初期化して合理的理論だけで埋め尽くすなどということなど出来るわけがない。また、予(あらかじ)め決められた目的に向けて、決められた道筋を、何の選択の余地もなくただ進むなどということは「人間」である限り出来やしないのである。 その理論の正確な性格が看取されるとき、その理論は自らの不完全さのゆえに崩壊することが理解されるであろう…この理論はどんな種類の行動についても満足のいく説明を与えないがゆえに、合理的な行動についての満足のいく考えではない(同、 p. 102 )  合理的理論とはどのようなものなのか。 まず何か「精神」と呼ばれるものがあるということ、この精神は信念・知識・偏見――要するに内実――を獲得するが、それにもかかわらず、それらは精神の単なる付加物にすぎないということ、精神は身体的な諸活動を引き起こすということ、そして獲得されたいかなる種類の性向によっても阻害されないとき精神は最もよく働く(同)  <精神>は独立した存在であるということ、先ずこれが「空想」である。 この精神はフィクションであって、実体視された活動以上の何物でもない。我々の知っている精神は知識や活動の所産であり、もっぱ...

オークショット「合理的行動」(5)合理主義は「砂上の楼閣」

人間の精神にはその構造上、「理性」という生まれつきの能力、その輝きが教育によってのみ曇らされるところの光、1個の誤謬(ごびゅう)防止装置、その呪文が真であるところの神託が含まれていると想定されてきた。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 98)  <理性><光><誤謬防止装置><神託>が人間精神に備わっているなどというのは、まったく非合理な前提である。が、この非合理な前提がなければ合理主義は成立しない。だとすれば、合理主義は、どれほど偉そうなことを言っても、「砂上の楼閣」と言うしかないではないか。 しかし、この想定が賢明さを失い必要を越えてさらに押し進められるならば、人間の精神はその内容とその活動から分離されうるという想定が(この能力があるとすれば)不可避であるように思われる。精神を中立な道具として、また1個の装置として想定する必要がある。この1台の機械を最もうまく使いこなすために長く激しい訓練が必要であるかもしれない。大事に整備されなければならないのはエンジンである。にもかかわらず、精神は独立した道具であり、それを用いることから「合理的」な行動が生じるのである。(同、 p. 98 )  <理性>は決して生得的なものではなく、経験を積むことで研ぎ澄まされていくものではないのだろうか。が、<理性>が経験差によってばらばらとなるようでは合理主義は成り立たない。だから<理性>は生まれながらにして誰もが平等に有しているものと前提しなければならないのである。  この仮説によれば、精神は経験を処理することのできる独立した道具である。信念、観念、知識、精神内容、とりわけ世界中の人間の活動のすべてがそれ自体精神として、あるいは精神を構成するものの一部として捉えられるのではなく、精神の外来的・後天的獲得物として、つまり精神が所有したり企てたりしたかもしれない、あるいはそうしなかったかもしれない精神活動の結果として捉えられる。 精神は知識を獲得したり身体活動を引き起こしたりするかもしれない。しかし、精神はあらゆる知識を欠きいかなる活動も起こさないとしても存在しうる何かである。たとえそれが知識を獲得したり活動を引き起こしたりしたとしても.それはその獲得物ないしその活動表現とは無関係のままである。精神は不変で、永久的であるが、その知識の内容は変動的でしばしば偶然...

オークショット「合理的行動」(4) 人間機械論

「合理的」な行動のさらなる決定要素は、それが除去ないし反対する種類の行為の中に見出されうる。第1に、単に気まぐれなだけの行動、すなわち予(あらかじ)め設定された目的を持たない行動が除去されるだろう。第2に、それは単に衝動的なだけの行動、すなわち欲求された目的の達成手段を反省的に選択するための必須の要素を欠く行動に反対するであろう。第3に、この「合理的」な行動は、次のような行動、すなわち意図的に受容された何らかのルール・原理・規範によって規制されず、かつある定式化された原理を素直に遵守(じゅんしゅ)することからは生じないような行動に永久的に反対する。さらに、それは伝統・慣習・行為習慣という吟味されていない権威から生じる行動を除去する…最後に、その達成に必要な手段のないことが知られている目的を追求する活動は除去される(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 96-97)  <合理的行動>には、こういった様々な制約が存在するのである。 我々が吟味している見解は、これが1つの可能な行動様式であること、具体的な活動はこの仕方で起こりうること、そしてそれがこのような仕方で起こるがゆえに「合理的」だと呼ばれうることを主張する。(同、 p. 97 )  多様な手法の中から絞り込まれた唯一の行動様式が<合理的>と呼ばれるに相応しいわけである。 この見解は何を前提しているのか。またこの諸前提を妥当なものにするのは何か。  第1の前提は、人々が物事を推論し諸活動についての諸命題を熟考しこれらの命題を整序づけて整合的なものにする能力を持つということであるように思われる。また、これは人間が持ちうる他のどんな能力からも独立した能力であり、人間の活動がそこから始まりうるところの何かである、ということがさらに前提されている。活動が「合理的」(あるいは「知的」)だと言われるのは、それがこの能力を行使することによって進められるからである。つまり、人間が行為する前に一定の仕方で「考えた」がゆえにそうなのである。「合理的」な行動とは、先行する「推論」過程から生じる行動のことなのである。ある人の行動が完全に「合理的」であるためには、彼が次のような能力を持っていることが想定されなければならない。すなわち、まずイメージしそれから追求すべき目的を選択する能力、その目的を明確に限定する...

オークショット「合理的行動」(3)厳密に定式化された目的

「合理的」な行動は、通常、特殊な目的だけでなく単純な目的をも持つであろう。というのは、目的が実際に複雑な場合、活動がその目的を達成できるよう有効に方向づけられうるのは、その複雑さが単純な目的の連続(ある目的の達成が次の目的の達成へ、さらに最終目的へと繋がっていくこと)として与えられているときか、あるいは複雑な目的の中にある単純な構成要素がその活動の特殊な構成要素と関連していると考えられるときだけだからである。したがって、「合理的な行為」においては、追求されるべき目的の厳密な定式化が必要とされる。つまり、力学と解剖学にその注意を限定し他の考慮をすべて無視するというブルーマーを考案したデザイナーの決定が必要なのである。「合理的」な活動は、ある問いに対する明確で最終的な回答を探求する活動である。したがって、その問いにはこのような回答ができる、と言えるような仕方で問いを定式化しなければならない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 95-96)  <追求されるべき目的>が厳密に定式化されていなければ、合理的に行動できない。詰まり、目的の厳密な定式化こそが<合理的行動>の肝(きも)なのである。目的は特別なもの、単純なものでなければならない。一般的なもの、複雑なものには合理的手法を用いることが出来ない。特別なもの、単純なものに照準を前もって絞り込むことが目的達成には不可欠なのである。 特殊な目的を達成するために活動を意図的に方向づけることは、必要な手段が利用可能ないし入手可能であり、かつ利用可能な手段から必要な手段を見つけこれを専有する権力が存在する場合にのみ成功しうる。したがって、「合理的」な行動には、予め計画された達成目標だけでなく、予め別々に計画された採用手段の選択も含まれることになろう。そして、これはすべて反省とかなりの公平さを必要とする。目的と手段の計画的な選択は、乱雑な状況の流れに対する抵抗を合意しかつこれを準備する。一度に一歩ずつ、というのがここでの原則である。それぞれの一歩は次の一歩がどんなものであるかを知らずして踏み出される。そういうわけで、行動の「合理性」は、この見解によれば、行動する前に我々が行う何かから生じるということになる。つまり、活動はそれが一定の仕方で引き起こされるがゆえに「合理的」なのである。(同、 p. 96 )  目...

オークショット「合理的行動」(2)合理的活動は目的志向的

なぜブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的」な衣服様式であると考えられたのか。また、なぜこのようなやり方が優れて「合理的」だと考えられたのか。概して、このような問いに対する回答は次のようなものである。第1に、これらの回答は状況に応じて採用されたものである――つまりブルーマーはその設定された特殊問題の正解だったのである。もし自転車が別の設計からなっていた(たとえば脚ではなく腕が推進機関であった)とすれば、「合理的」だと考えられる衣服は異なったデザインになっていたことであろう。 第2に、その回答はその設定された問題の反省的な熟考からのみ生じた(あるいは生じると思われた)ものである。すなわち、ブルーマーをデザインするという行為(あるいはそれを着用するという行為)は、「不適切」な考慮によって撹乱されない独自の反省的努力という先行行為から生じたがゆえに、ブルーマーは「合理的」な衣服様式だった(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 94)  空っぽの頭に合理的なものを詰め込めば、あらゆるものが合理的に見えるのは当然である。合理的に見えないとすれば、最初の段階で頭が空っぽになっていなかったという初期設定の失敗である。 「合理的」な活動とは、予め別途に考えられた目的を追求し、かつその目的だけに規定される行為のことである…「合理的」な行動は、定式化された目的を達成するために意図的に志向された行為のことであり、その目的だけに支配される。(同、 p. 95 )  最初に「ある目的」という小さな世界が設定され、この目的を達成することだけにおいて<合理>が追及される。当然、目的外のことは端(はな)から眼中にはないということである。 ブルーマーは、ヴィクトリア朝の感性に衝撃を与えたり楽しませたり困惑させたりするためにではなく、まさにサイクリングに適する衣服様式を提供するためにデザインされたものである。デザイナーたちは、「何か娯楽に供するものを作ろう」と心の中で考えていたわけではなかったし、またその創作物の「ばからしさ」が多少なりともその「合理性」に適った特性であるなどと思っていたわけでもなかった。(同)  創作物が馬鹿らしいものかどうかなど<目的>とは無関係なのであるから、合理主義者にとって、そんなことを気にすること自体が「馬鹿げたこと」なのである。 ...

オークショット「合理的行動」(1) ヴィクトリア朝のデザイナーたちが求めた「合理性」

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「狂人」――我々はその行為を「不合理的」だと認める――は、必ずしも自分の企図を成し遂げることに失敗するわけではない。また我々は、議論においてさえ、誤った推論にもかかわらず正しい結論が得られることがあることを知っている。(オークショット「合理的行動」玉木秀敏訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 92)  <自分の企図を成し遂げる>こともあると言うのなら、「狂人」の行為は、必ずしも<不合理>だと言えないということである。むしろ狂人は狂人なりに合理的に振る舞っているのではないかとさえ思われる。また、<推論>の正しさと<結論>の正しさも、必ずしも比例しないというのもまた事実であろう。  合理的に考えれば、正しい結論が得られるわけではない。合理的に考えても、答えが間違っていることもあれば、合理的に考えなくても、答えが正しいこともある。詰まり、合理的手法をとるかどうかは答えの正しさと連関しないということである。  さて、オークショットは、19世紀後半に流行した<ブルーマー>を取り上げる。 https://twitter.com/MuseeMagica/status/1395861648804433924 ブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的な服装」であると主張された…彼らは自転車を進ませる活動にもっぱら注意を向けていた。ある一般的な設計からなる自転車と人間の身体の構造とが考慮され互いに関連づけられねばならなかった。これ以外の考慮はすべて、デザインされる衣服の「合理性」の決定に重要でないと考えられたがために打ち捨てられてしまった。特にデザイナーたちは、女性の衣服に関する当時の偏見・因習・民俗を断固として考慮しなかった。つまり、これらは「合理性」の観点からすれば状況を制限するものでしかないと考えられるに違いない。したがって、この目的のために「合理的」な衣服をデザインするという企画の第1段階は、心をすっかり空虚にすること、つまり先入観を意識的に払拭しようと努力することでなければならない。もちろん、ある種の知識――力学と解剖学の知識――は必要とされるが、しかし人間の思考の大部分はこの企画の障害物として、つまり無視する必要のある邪魔物として現れる。(同、p. 93)  合理的成果を得るための第1歩は、例によって、「頭の中を一定空っぽにする...

オークショット「バベルの塔」(5)【最終】西洋道徳の苦境

I am not contending that our morality is wholly enclosed in the form of the selfconscious pursuit of moral ideals. Indeed, my view is that this is an ideal extreme in moral form and not, by itself, a possible form of morality at all. I am suggesting that the form of our moral life is dominated by this extreme, and that our moral life consequently suffers the internal tension inherent in this form. Certainly we possess habits of moral behaviour, but too often our selfconscious pursuit of ideals hinders us from enjoying them. Self-consciousness is asked to be creative, and habit is given the role of critic; what should be subordinate has come to rule, and its rule is a misrule. Sometimes the tension appears on the surface, and on these occasions we are aware that something is wrong. –- Michael Oakeshott, The Tower of Babel (私は、私達の道徳が自意識過剰に道徳的理想を追求する行為に完全に封じ込められていると主張しているのではない。実際、私の考えでは、これは道徳的形態における仮想上の極端であり、それだけでは、道徳の形態として全く有り得ない。私が言いたいことは、私達の道徳的生の形態がこの極端に支配されており、私達の道徳的生は、結果として、この形態に特...

オークショット「バベルの塔」(4) 人間活動の詩的性格

この形態の根本的な欠陥は、その優越している方の極の根本的な欠陥――あらゆる人間活動の詩的性格の否定――である。思考の散文的伝統のおかげで、我々は次のような想定に慣らされてきた。それはすなわち、道徳的活動は、分析してしまえば、存在すべき理念を現実の実践に翻訳すること、理想を具体的に存在させることであるとわかるだろう、という想定である。そして我々は他ならぬ詩をこれらの用語で考えるのにさえ慣らされてきた。まず「心の欲求」(理想)があり、そしてその表現として、言葉への翻訳があるというのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 82)  オークショットは、人間の活動には詩的性格があると言うわけである。 しかしながら、私はこの見方は間違いだと思う。それは不適切にも、教訓という形式を芸術と道徳的活動一般に押しつけているのである。詩は心の状態を言葉に翻訳したものではない。詩人の言うことと言いたいことは2つのもので前者は後者のあとに従って後者を化体(かたい)している、というわけではない。両者は同一のものである。詩人は言ってしまうまでは、自分が何を言いたいのかを知らない。そして彼は自分の最初の試みに「訂正」を加えるかもしれないが、それはすでに定式化された理念やすでに心の中で十分に形成されたイメージに一層ぴったりと言葉が対応するようにするための努力なのではなく、理念を定式化しイメージをつかむための努力の更新なのである。詩それ自体より先には何も存在しない――おそらく詩的情熱を別としては。そして詩について真であることは、思うに人間のあらゆる道徳的活動についても真である。(同)  詩人は、心に浮かぶ「想い」を言葉にしているのであって、頭に刻み込まれた「理想」を言葉にしているのではないということだ。 道徳的諸理想は反省的思考の産物、現実化されざる理念の言語的表現であってそれが(正確さは様々だが)人の振舞いに翻訳される、というわけではない。それらは人の振舞い、人の実践活動の産物であって、反省的思考は後からそれらに部分的で抽象的な表現を与えるのである。よいことや正しいこと、あるいは合理的振舞いと考えられることは、状況に先立って存在するかもしれない。しかしそれは、生まれつきによってではなく技芸によって決定されるさまざまの振舞いの可能性の一般化された形態としてにすぎない。...

オークショット「バベルの塔」(3) 慣習的道徳と反省的道徳

The intellectual distinction between customary and reflective morality is clearly marked. "The former places the standard and rules of conduct in ancestral habit; the latter appeals to conscience, reason, or to some principle which includes thought. The distinction is as important as it is definite, for it shifts the centre of gravity in morality. Nevertheless the distinction is relative rather than absolute. Some degree of reflective thought must have entered occasionally into systems which in the main were founded on social wont and use, while in contemporary morals, even when the need of critical judgment is most recognized, there is an immense amount of conduct that is merely accommodated to social usage. – John Dewey, The Later Works of John Dewey, Volume 7, 1925 - 1953: 1932, Ethics : Chapter 10 (慣習的道徳と反省的道徳は、明確に、知的に区別される。前者は行動の基準や規範を先祖代々の習慣の中に位置づけ、後者は良心や理性に、あるいは思考を含む何らかの原理に訴える。この区別は明確であると同時に重要である。というのは、道徳の重心が移動するからである。とはいえ、この区別は絶対的というよりもむしろ相対的なものである。ある程度の反省的思考が、時折、主として社会慣...

オークショット「バベルの塔」(2) 中庸の用

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我々は正義を実現しようと熱心になるあまりに思いやりを忘れるし、廉潔(れんけつ)への情熱は多くの人々をかたくなで無慈悲にもしたのである。実際、幻滅に至らないような理想の追求は存在しない。この道を辿る人すべてにとって、最後には憂鬱(chagrin)が待っている。いかなる賞賛すべき理想にも反対物があり、こちらも同様に賞賛に値する。自由か秩序か、正義か思いやりか、自発性か慎重さか、原理か状況か、自己か他者か――これらは道徳的生のこの形態がいつも我々に直面させるディレンマであって、それは完全に望ましいというわけではない両極端にいつも我々の注意を引きつけることによって、我々に物を二重に見させるのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 79)  例えば、自由が過剰になり、勝手が横行すれば、社会秩序は乱れる。逆に、秩序に囚(とら)われ過ぎれば、自由に振る舞うことは出来なくなる。必要なのは、自由と秩序を平衡させることである。が、その平衡点は大いに状況に依存されるものであって、自由と秩序を何対何で混ぜ合わせればよいというような話にはならない。だから道徳の実践的課題は、技術的道徳論では答えが出せないのである。 《子程子(していし)曰く偏(かたよ)らざる之を中(ちゅう)と謂ひ、易(か)はらざる之を庸と謂ふ。中者(は)天下の正道にして、庸者天下の定理なり》(宇野哲人『中庸』(大同館版)、 p. 53 )  詰まり、求められるのは「中庸」だということである。 《仲尼(ちゅうじ)曰く、君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり》( p. 70 ) (仲尼曰く、君子は中庸卽(すなわ)ち偏らず倚(よ)らず過不足なく、平常にして且(か)つ恆久不易(こうきゅうふえき)の德を己の身に體得(たいとく)して居るが、小人は中庸に反す。君子の中庸を能(よ)くする故(ゆえ)は、見ざるに戒愼(かいしん)し聞かざるに恐懼(きょうく)して、未發の中を失はず、一念動く處(ところ)よく獨(ひとり)を愼しむの工夫を凝らして中節の和を得、君子の德あるが故に、時に隨(したが)ひ變(へん)に處(しょ)してその宜(よろ)しきに叶(かな)ふのである。小人の中庸に反する故は、小人の心ありて、欲を肆(ほしいまま)にし妄(みだ)りに行ひて、少しも忌(...

オークショット「バベルの塔」(1) 社会は賭けに出られない

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The pursuit of perfection as the crow flies is an activity both impious and unavoidable in human life. It involves the penalties of impiety (the anger of the gods and social isolation), and its reward is not that of achievement but that of having made the attempt. It is an activity, therefore, suitable for individuals, but not for societies. For an individual who is impelled to engage in it, the reward may exceed both the penalty and the inevitable defeat. The penitent may hope, or even expect, to fall back, a wounded hero, into the arms of an understanding and forgiving society. And even the impenitent can be reconciled with himself in the powerful necessity of his impulse, though, like Prometheus, he must suffer for it. For a society, on the other hand, the penalty is a chaos of conflicting ideals, the disruption of a common life, and the reward is the renown which attaches to monumental folly. Or, to interpret the myth in a more light-hearted fashion: human life is a gamble; but whi...

オークショット「自由の政治経済学」(8)【最終】 漸進的改革

政治における自由主義者の営みは既に種のまかれたところを耕すこと、そして自由を達成する既に知られている方法だけでは確保しえないような新たに提案された自由を追求する不毛を避けることにあると思う。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 55)  「種蒔き、耕し、収穫する」という従前の方式が「完璧」なのではない。だから、改良すべきは改良すればよい。が、それはあくまでも既存のやり方を元にした改良であって、「素晴らしき世界」へ我々を誘(いざな)うために、これを全否定するような「夢物語」は御免被りたいということである。 政治というものは何らかの新しい社会を想像することでも、既存の社会を抽象的な理想に合致させるべく改造することでもなく、我々の現存の社会からほのかに聞えてくる要求をより充分に実現するために今何をなす必要があるのかということを認識することであろう。(同)  これはまさしく保守思想である。左翼思想家が提示するような「うまい話」は「机上の空論」でしかなく、こんな現実化するかしないかわからない話に乗っかって、一足飛びに一攫千金を狙うような、失敗すれば全てがおじゃんになってしまうような賭けに出る必要は毫(ごう)もなく、現実に手に入れられる果実をしっかり実らせて手に入れることの方を優先すべきだということである。 政治の正しい行いには、耕されるべき社会の性格についての深い知識、その現状についての明瞭な認識、及び立法的改革のプログラムの正確な定式化が、含まれる。(同)  何事も完璧なものなどないのであるから、現状に何某(なにがし)かの問題があるのはむしろ当然のことである。が、問題があるからといって、社会体制を丸ごと変えてしおうというのは軽率であり傲慢である。果たして体制を丸ごと変えてしまわねばならないような問題とは一体どのようものなのか。 今や権力を振っている辛抱のない悪ずれした世代が、眼の焦点を遠くの地平線にあわせ、外国製のはったりに心をにごらせながら、過去との協同関係を解消し、自由だけを粗末に扱っている。(同、 p. 56 )  社会体制を丸ごと変えることは、頭の中では出来たとしても、現実的には出来ない。急激な変革は、人々を振り回し、社会秩序を掻き乱すだけである。  我々に出来ること、そして、やるべきことは、修正を施すということである。たとえ僅...

オークショット「自由の政治経済学」(7) 自由主義的選好

少しでも動くことを頑として拒否する態度、人民投票的民主主義にみられるようなまったくのプラグマティズム(実用主義)、伝統とは「前回ししたことをすることにすぎないという短絡した認識、そして一歩一歩訓練を積むよりも近道をしたがる選好、こうしたもののいずれにも我々は奴隷状態の徴表を見出すものである。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 54)  このような選好は、反自由主義そのものである。 また我々は、遠くはなれた予測もできないような未来のために現在を犠牲に供(きょう)することも、うつろいゆく現在のために間近の予見しうる未来を犠牲に供することも、したくないのであり、短見にも陥らず、かといってあまりに先を見すぎもしないがゆえに、自分たちを自由であると考える。(同、 pp. 54-55 )  「進歩史観」に染まり、実際は非現実的でしかない「夢物語」を実現可能であるかのごとくに思い、今ある果実を手放したり、近い将来得られるであろう果実を放棄するなどということは全くもって馬鹿げたことである。 更にまた、見解の自発的一致を背景としたゆっくりとした小さな変化への選好、反対派を抑圧することなく分裂に抵抗できる能力、及び社会が速くあるいは遠くに動くことよりも社会がともに動くことのほうが重要であるという認識に、我々は自由を見出す。(同、 p. 55 )  これらはまさに<自由主義>的性向である。無邪気にただ夢を追い掛けて良しとするのではなく、現実を地道に積み重ねていくことを大事にするという保守的性向である。 我々は我々の決定が誤りのないものだなどとは主張しない。実際、完成ということについての客観的ないし絶対的な基準が存在しない以上、不可謬(ふかびゅう)ということはなんら意味をもたない。我々が必要としているものは、変化の原理と同一性の原理のうちに見出されるのであって、それ以上のものを我々に提示する人々、つまり、多大の犠牲を我々に要求する人々、及び我々に英雄的性格を課したがる人々を、我々は疑ってかかる。(同、 p. 55 )  <変化の原理と同一性の原理>とだけ書かれても具体的にどういうことなのか、浅学の私には分からない。が、恐らく<変化の原理と同一性の原理>が現実世界に属するものであるのに対し、<それ以上のもの>とは現実を越えた謂わば「空想世界」に属するもので...

オークショット「自由の政治経済学」(6) ベルクソン

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社会は、その道標を、あらかじめ認識された目的ではなく、継続性の原理(それは過去、現在、未来のあいだの権力の分散を意味する)及び合意の原理(それは現在のさまざまな正統な利害のあいだの権力の分散を意味する)に見出すことになろう。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 54)  <権力分散>は、縦軸と横軸がある。即ち、過去・現在・未来に跨(またが)る「時間軸」と、現代の社会に広がる「空間軸」である。過去・現在・未来のいずれにも偏向せず、それぞれを尊重することによって時は淀むことなく流れる。個人にあっては、「意識の流れ」ということになろうなどと考えたところで、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンがちょっと気になった。 《人々は一致して、時間を、空間とは異なる、しかし空間と同じく等質的な、無規定な境域とみなしている。こうして、等質的なものは、それを充たすものが共在であるがそれとも継起であるかによって、二重の形式を帯びることになろう》(ベルクソン「時間と自由」中村雄二郎訳:『世界思想教養全集 23 』(河出書房新社)、 p. 66 ) 《まったく純粋な持続とは、自我が生きることに身をまかせ、現状の状態と先行の諸状態との問に分離を設けることをさしひかえるとき、われわれの意識状態の継起がとるかたちである》(同、 p. 67 )  さて、何となくオークショットがベルクソンを下地にしているような気がして、ベルクソンの言葉をちょっと引用してみた。が、ここでベルクソン論を語るだけの準備が私にはないし、話が逸れてしまいそうなので、私の講釈は抜きにして話を先に進めよう。 我々は、我々による現在の願望の追求によって過ぎ去りしものへの共感が失われることがないがゆえに、自分たちのことを自由であるというのである。賢人のごとく我々は我々の過去と和解して在るのである。(オークショット、同)  この部分は難解である。解説しようにも私の手には負えそうにもないので、参考までに再びベルクソンを引用しておきたいと思う。 《意識は、もう過去のものになったあれこれの経験に関わる記憶力によって、過去をいっそうよく保持し、それを現在と有機的に組織して、さらに豊かで新しい決心を行えるわけだが、しかしそればかりではない。この意識は、より強度に満ちた生を生きながら、直近の経験の記憶力によって、外的な...

オークショット「自由の政治経済学」(5) 法の支配

法の支配による政府(即ち、統治者と被治者をともに拘束する確固としたルールを規定しておくという方法による強制手段を採用している政府)は、それ自体が、それがその促進のためにこそ存在しているところの権力の分散の象徴であり(かと言ってこの政府はなんら強さを失なっていない)、それゆえに自由な社会にとって格別に適しているのである。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 48)  <法の支配>とは、議会で制定された法(制定法)に従う「法治主義」とは異なる。「法の支配」とは、被統治者のみならず統治者もより高次の法によって拘束されるとする考え方である。より高次の法とは、歴史的に社会秩序を構成してきた法( common law )のことである。あっさり言えば、歴史伝統に棹差そうとするのが<法の支配>なのである。 この方法は権力行使において極めて経済的な統治方法である。それは過去と現在との、また統治者と被治者との協力関係を含んでおり、恣意(しい)のはいりこむ余地のないものである。それは危険な権力の集中への抵抗の伝統を助長するものであり、いかに破壊的ないかなる無差別攻撃よりもはるかに効果的である。それは、効果的に、しかし世の中の大きな流れをとめてしまうことなく、統御を行う。それは、社会がその政府に期待してもよい、限定された、だが必要なサービスはどのようなものかということを実際に定義し、我々が政府に対して無駄で危険な期待をしないようにする。(同)  過去のやり方を受け継ぐという意味で「前例主義」も一見、歴史伝統に棹差しているかのようである。が、時は流れ行くものであり、<前例>をただ踏襲するだけでは時代に取り残されてしまいかねない。<前例>に拘(こだわ)って、ただ頑(かたく)なに旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)するのではなく、時代にそぐわなくなったところは時代に合わせ変更するという柔軟性が必要だということである。本当の意味で歴史伝統に棹差すとは、過去の英知を現在に合わせて日々更新することでなければならない。詰まりは、保守と保全の平衡が大切になるのである。 自由全体を豊富化し安定的なものにしつつ我々の享受する自由を構成している多くの種類の自由の中で、我々は2つの自由が重要だと久しく認めてきた。そのひとつは結社の自由であり、もうひとつは私有財産を所有する権利において享受されている...

オークショット「自由の政治経済学」(4) 権力分散化

我々の社会における政府の振舞いも、権力の分有を含んでいる。それは公認の政府機関のあいだでだけではなく、政権担当者と野党とのあいだにおいてもいえる。要言すれば、我々が自分を自由であると考えるのは、社会のなかの誰も、いかなる指導者も、党派も、政党や「階級」も、いかなる多数者も、いかなる政府も、教会も、企業も、職能団体も、労働組合も、無制限の権力を認められていないという理由によるのである。その自由の秘密は、その最良のものの状態においては全体の特徴であるかの権力の分散が再生産されているような多くの組織から社会が成立っているということにある。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 46)  <権力の分散化>そして<権力の分有>が自由には不可欠だということである。 The history of institutions is often a history of deception and illusions; for their virtue depends on the ideas that produce and on the spirit that preserves them, and the form may remain unaltered when the substance has passed away. – Lord Acton, The History of Freedom in Antiquity (制度の歴史は、しばしば欺瞞(ぎまん)と幻想の歴史である。というのは、制度の美徳は、それを生み出す思想と維持する精神に依存し、その形式は、実体が無くなっても変わらないままであるかもしれないからである)――アクトン卿「古(いにしえ)の自由の歴史」 その始まりにおいては権力の分散を促進していた制度が、時がたつにつれて、それ自身強力になりすぎ、あるいは絶対的にさえなってしまったのに、その始まりの性格に鑑(かんが)みれば相当であるような承認と忠誠を依然として要求する、といったことはしばしばある。自由を伸ばしていくためには、我々はかかる変化を認識できるほどに慧眼(けいがん)であらねばならないし、また悪を芽のうちに摘みとるほどに精力的でなければならない。(オークショット、同)  例えば、人工林も植林の後、日光が地表に届くよう、下刈り、枝打ちなど...

オークショット「自由の政治経済学」(3) 権力集中の不在

彼(=ヘンリー・サイモンズ)が探究しようとした自由は抽象物でも夢でもない。彼が自由主義者であるのは、自由の抽象的定義から始めるからではなく、それを享受してきた人々が(一定の正確な特徴のゆえに)自由な生活様式と呼び親しんでいるところの生活様式を彼が実際に享受してきた(また他の人々が享受しているのを見てきた)からであり、また彼がその生活様式を良きものと考えてきたからである。探究の目的は、語の定義ではなく、我々の享受しているものの秘密を発見すること、それに敵対的なものを認識すること、そしてそれをより完全に享受できる場と方法を見分けることなのである。(オークショット「自由の政治経済学」、 p. 44 )  サイモンズは、理論家ではなく実践家であったということだ。 自由は、教会と国家との分離から生じるのではないし、また法の支配から生じるのでもなく、私有財産から生じるのでもないし、議会制的統治からも、人身保護令状から、も、はたまた司法の独立からも、およそ我々の社会の特徴をなす何千という他の装置や制度のいずれからも生ずるのではない。それは、これらのそれぞれが意味し表現しているもの、即(すなわ)ち、我々の社会における圧倒的な権力の集中の不在から生ずるのだ。これこそが我々の自由のもっとも普遍的な条件であって、他のすべての条件はこの中に含まれているとみることができる。(同、 p. 45 )  詰まり、 the absence from our society of overwhelming concentration of power (圧倒的な権力集中が我々の社会に存在しないこと)が重要なのである。 我々の社会の政治は、過去、現在及び未来がそれぞれ発言権を持つ会話である。その中のひとつが時として優勢になるのが適切であることもあるが、永続的に支配することはなく、かかるがゆえに我々は自由なのである。(同、 p. 46 )  過去の不在は、現在の過剰となって、独善に陥りがちである。現在の不在は、地に足の着かぬ空想になりがちだ。未来の不在は、自分勝手になり、過去の財産を食い潰しかねない。過去・現在・未来が平衡を保つことが肝要なのであり、これこそが、抑制の利いた、本来あるべき<自由>なのだと考えられるということである。 また、我々のあいだでは、我々の社会を構成する多くの...

オークショット「自由の政治経済学」(2) 「自由とは必然性の洞察である」

我々は「積極的」自由と「消極的」自由、「古い」自由と「新しい」自由を区別するように教えられ、また「社会的」自由、「政治的」自由、「市民的」自由、「経済的」自由、「個人的」自由を区別するように教えられる。我々はまた、「自由とは必然性の洞察である」と教えられ、更には重要なのは内心の自由であってこれは平等及び力と同一視される、と教えられる。(オークショット「自由の政治経済学」、 p. 44 )  「自由とは必然性の洞察である」と書いたのは、共産主義運動の理論的支柱フリードリヒ・エンゲルスであった。 《ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」 自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。これは、外的自然の法則にも、また人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則にも、そのどちらにもあてはまることである。――この2部類の法則は、せいぜいわれわれの観念のなかでだけたがいに分離できるのであって、現実には分離できないものである。したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない。だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。 他方、無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである。だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。 したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。動物界から分離したばかりの最初の人間は、すべての本質的な点で動物そのものと同じように不自由であった。しかし、あらゆる文化上の進歩は、どれも自由への歩みであった》(エンゲルス「反デューリング論」 村田陽一訳 :『マルクス・エンゲルス全集 ...

オークショット「自由の政治経済学」(1)「欠乏からの自由」

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自由とは何か、この抽象的に提起された問いによって、ただ詭弁(きべん)という星のみが照らす果てしない屁理屈の夜にむかってドアが開け放たれるのだ。牢獄に生まれた人のように、我々はかつて経験したことのない何か(例えば欠乏からの自由)を夢み、その夢を我々の政治の基礎とするようにせきたてられる。(オークショット「自由の政治経済学」名和田是彦訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、 p. 44 )  「自由とは何か」を考えること自体に問題があるのではない。問題なのは、この問いに対する解答がどんどん拡張され、詭弁塗(まみ)れになってきていることである。当たり前だが、「表現の自由」といった我々の日常に関わる「自由」と、「欠乏からの自由」などという一体どこに終着点があるのか分からない抽象的な「自由」とは分けて考える必要がある。  因(ちな)みに、「欠乏からの自由」という言葉は、ルーズベルトの一般教書演説の中に出て来る。 In the future days, which we seek to make secure, we look forward to a world founded upon four essential human freedoms. The first is freedom of speech and expression—everywhere in the world. The second is freedom of every person to worship God in his own way—everywhere in the world. The third is freedom from want—which, translated into world terms, means economic understandings which will secure to every nation a healthy peacetime life for its inhabitants—everywhere in the world. The fourth is freedom from fear—which, translated into world terms, means a world-wide reduc...